人の学びの歴史的進歩
人間の考え方について、突き詰めると
人間は何故学ぶか
どのように学ぶか
と言う問題が見えてきます。
この問題を考えるため、過去の人の生活を考えます。
原始時代なら、生きていくために、食物の確保や、外敵から身を守るために
経験を蓄積
します。例えば
このキノコを食べると死ぬ
あそこは怖いクマがいる
などの経験から、その場を避けるようになります。この知識は、経験者から他の者に伝えていきます。こうした
生きていくための知識を
皆で共有する
が、学びの第一歩でしょう。
さてこうした知識は
個別の事例の寄せ集め
だけでは、また別物では失敗します。例えば、キノコは色々な種類があるし、クマも色々な所にいます。さらに怖いのは、クマだけでなく、猪や狼もいます。
ここで一つの飛躍は
経験を一般化する
ことです。例えば
毒々しい色のキノコは危険
という風に一般化したら
新しいキノコにも対応できます。
さて、この一般化を、もう少し強くしたのが、古代インドの思想家です。彼らは
比喩の力で類推推論
を行いました。有名な事例は
あの山に煙が見えるから火があるだろう
かまどの火から煙が立つように
という「火が無いところに煙りたたず」論法です。
さて、古代ギリシャの哲学者は、ユークリッド幾何学などから
確実な因果関係を見いだす理想化
を行いました。例えば、現実の地形なら、同じモノは無いでしょう。しかし、点と線だけで抽象化した図形なら、合同と簡単に言えます。
こうした「理想化の力」は、古代ギリシャの哲学、ローマの法そしてルネッサンス以降の自然科学で大きな威力を発揮します。
このような、因果関係が明確な法則は
自然現象を説明し予測し
新しい機械やしっかりした建造物
を生み出しました。
しかしながら、こうした「理想化」では、落ちたモノがあります。
一つは、デカルトの批判哲学に対抗した、ヴィーコの主張する
確からしいモノ
です。一時期の心理学は、科学的であるため
刺激-反応
だけで議論していました。これに反論した、フロイトなどの動きは
経験的にありそうなもの
を活かそうとする動きでもありました。
もう一つの例は、20世紀半ばにアメリカで流行った、一般意味論の
地図は現地ではない
という論点です。アフリカの国境は、旧植民地支配国の影響があり、宗主国は地図の上で領域を分けました。そこでは、現地の地形や、部族の関係を無視した国家になります。
さて、こうした「経験的な知恵」の伝承は
個人の技として伝える
ために、徒弟制度などの方式が主になります。これは、技術的な伝承より、遅く不安定です。
さて、この問題へ
理論の良さと現実の多様性
に正面から向き合い、両者を生かすのが
西田哲学の発想
です。
西田哲学の凄さは、単に
従来の東洋の智慧への回帰
ではなく
西洋論理で説明できる部分はキチンと説明
それも使った上で世界を心の中に造り直観
つまり
自分で再構成し心の中で動かす
という、一段上の解決です。まさしく
西洋と東洋の弁証法
で、よりよいモノを生み出す考えです。
これを、私たちはもう一度、複雑多様化の現在に対して、見直すべきでしょう。