![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/110499533/rectangle_large_type_2_8571a9a2166a5401e057ab957c4e3651.jpeg?width=1200)
テトラレンマで悟りを知る
天台大師の『摩訶止観』では『中道第一義』を実感する『円頓止観』を説いています。『止観』は聞いたことがなくても、『坐禅』を知っている人は多いでしょう。『坐禅』は『止観』の主な修行方法です。
さて、岩波文庫の『摩訶止観』では、臨済宗や曹洞宗などの、禅宗の教えと違って
天台の止観は細かく教えている
と説明しています。
例えば、禅定の境地も
数息、不浄、慈心、因縁、念仏
の五門に分けて、詳しく説明しています。この禅定の境地について、読んでいくと
捨てる
ことが繰り返し出てきます。そして、最後には
非想非非想
想うに非ず 想わざるに非ず
と言う
全ての否定
の境地になります。
これは、今まで私達が学んできた、西洋的な論理では、理解出来ない
絶対的な否定
です。今までの発想なら
想う vs 想わない
想 vs 非想
と言う図式になり、これで十分だと考えていました。
しかし、1人で瞑想し
「想うを」捨て
「想わない」も捨てる
と言う
何もない境地
を感じると、逆に
それでもある仏の力
を感じてしまいました。
これを、京都学派の哲学者(京大名誉教授)、山口得立(やまぐち とくりゅう)の「テトラレンマ」の発想で考えます。これは、中論を体系化した、2世紀にインドで生まれた龍樹が使用した「論理的」な考え方です。
テトラレンマの発想では以下の4つのレンマで考えます。
Aである
非Aである
Aでなく、非Aでない
Aであり、かつ非Aである
西洋文明の論理は、上記の1.と2.の両者で、その中間がないと考えます。これを「排中律」と言います。
しかしながら、現実社会の多様性に対応して、3.のような中間的なモノを考える必要があります。西洋文明でも、アルフレッド・コージヴスキーの「
非アリストテレス論理学」などが提案されています。このように考えると、Aか非Aの択一の中間を考えるのは、自然なことだと思います。『中』の教えも、その線に乗っています。
しかしながら、上で書いた『非想非非想』の発想は、上記3.の形ですが
絶対的に否定するので
その間を拓く
ことはできません。今までの考えを捨て
全てを無にする
世界に浸ります。
こうした、世界の厳しさを感じたとき
全てを作る仏の力を実感する
のが悟りではないかと思いました。ここまで来ると
仏の大神通力をもって
全てが救われる世界
を造る。このように考えて、法華経を読むと
人を見て法を説く
種々の方便を尽くす
仏の智慧が見えてきます。
一方、一つ一つの救いを実践する『菩薩行』なら
無数の現実に合わせて中を拓く
対応があると思います。多様性に対して、個別に対応する『菩薩』それら全てを造る『如来』の力、このような解釈はいかがでしょう。
こうした、全体像を描き、皆のために考える発想こそ、現在に必要だと思います。