裁判の考え方
私達日本人と、キリスト教文明の裁判に対する考えは、違っています。大雑把に言うと
西洋文明:相互に主張して勝つための裁判
日本文明:真実が明らかになりそれが裁く
です。アメリカの裁判の雰囲気は、E.S. ガードナーのペリーメースンのシリーズが、上手く伝えていますが、そこでは
弁護の目的は依頼人の利益
と言うことで、陪審員を上手く誘導して無罪を勝ち取る、等の手段も平気で行います。
一方、日本の裁判においては
真実が明らかになる
ことを重視し
被告人も罪を認める
形を理想としています。日本人の理想の一つに「大岡裁き」があります。場合によっては、法を曲げても、お互いが納得する、これを求めています。
この違いは、根本には宗教的な立場に原因があります。要点は
キリスト教:神の立場は人には到達不可能
従って人間は部分的にしか知ることが出来ない
大乗仏教:全ての人は仏の智慧を持つことが出来る
従って、真実を知ることが出来る
です。
北条泰時は、華厳経の権威である明恵上人の影響を受けて
あるべきようは
を拠り所にして、御成敗式目を作りました。中国の模範もなく、天皇の権威もなくて、自分たちの経験を積み上げて、法を作ることが可能だったのは、このような仏の教えの力が根底にありました。