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日本的な「漏れなし」
昨日書いた
「漏れなし」が言える条件|鈴木良実 (note.com)
に関連して
何故「漏れなし」と言えないか
を、西田哲学の発想で考えました。これは、前に書いた
イデアが上の西洋哲学一般者が下の西田哲学|鈴木良実 (note.com)
の議論の実例でもあります。
私達が生きている世界は
歴史的な流れの中の世界
です。つまり
過去からの因縁が絡み
未来の要求が影響し
常にいろいろなモノは変化している
世界です。
しかしながら
常に変化するから記述不可能
などとあきらめると、人間生活はできません。そこで現実を見ると
短期的には安定
過去の影響も無視できる
などの条件で考えることもできます。こうした考えで得たものを
西田哲学は「一般者」
西洋文明は「イデア」
と読んでいます。私たち日本人には、西田哲学の発想が合うように思います。以下の図は、少し難しい表現ですが、西田哲学の一般者の位置づけを見てください。
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さて、こうした一般者や、世界はどのように、見出せるのでしょう?
西田哲学の発想は
旨く説明できる理論に合う一般者
それが座り良く配置できる世界
という発想です。つまり
神から与えられたイデア
という発想でなく
色々と描いていくうちに落ち着いたもの
という感じでの全体像になります。
これを理解せずに
完全な全体像を求めると
全体像が描けない
となって苦労するのです。アメリカ人などには
これでよい
と割り切った議論が多いようです。
しかし、こうした割り切りは、考慮外のトラブルに、巻き込まれます。一例を挙げれば
大寒波の時電気自動車が使えない
エンジンの暖房機能を無視していた
という話があります。
さて日本的な視点では、私たちは、今までの蓄積から
類似の体験
今までの知識
などで
議論の世界のイメージ候補
が多く持っています。これを旨く探し、試行錯誤して修正していき、座り良くするのが、全体像の上手な描き方だと思います。