『空』『仮』『中』の教えについて
大乗仏教の教えとして
「一切は空である」
や
「中道の第一義」
等の教えがあります。しかし、この教えを、本当に納得している人は、少ないように思います。ここでは、私達の心の働きを中心に、『空仮中』について考えます。
大乗仏教の心の捉え方は、外部にあるモノが、目や耳などの感覚器官を通じて入って、識別する働きとして考えています。なお、感覚だけでなく、『意』も感じる道具として考えています。但し、『意』が感じる対象は物体でなく『法』です。つまり、『意識』の舞台に乗るのは『法』なのです。目・耳・鼻・舌・身体の五感と『意』で、六根と言います。『六根清浄』という言葉は、これからでています。
それでは『空』の教えを観ていきましょう。この考えの中心は
「私達が見ているモノは、色々な縁が集まったからできている。特定の実体はなく『空』である。」
例えば
「私は色々なご縁で生まれた。生まれる前には、色々なところに縁があった。また私が死んでも、私の影響は色々なところに縁として残る。」
という風に考えると
「私の実体は形あるモノでなく、『縁』の絡まった『空』である。」
と言えるでしょう。これは、自分が救われる教えです。
一方、『仮』の論法では
「そう言っても、貴方という実体が存在するでしょう。」
という風に、現実にあるモノに着目します。これは、多くの人を救う、菩薩業で必要になる教えです。人を見て法を説く場合には、相手の理解力に合わせた教えが必要です。
さて『中』の教えは、単純に
「中間で妥協をする」
と言う発想ではありません。『中』とは
「現実に存在するモノは、縁が絡み、仏の法の支配を受けている。」
という風に
「仏の力が安定して働く法界」
を言います。そこでは、法と縁と形あるモノが密に絡んでいます。こうした複雑なモノを、自分のモノとして観る。これが仏の智慧です。
「中をとると言って、両極端を切り捨てる。」
これは西洋文明的発想です。仏の智慧は、総ての多様性を観ながら、無数の衆生を我が子と観て、救おうとします。