平等と均質は違う
皆さんは
「人は皆平等」
は
「現実は違う」
と言う反論もあるが
「理想論としては正しい」
と考えている人が多いと思います。
しかしながら、この実現のために
均質化
を押しつける人がいます。この一例は
一部の学校教育
です。一時の「ゆとり教育」の場合の
(誰もができる計算のため)「円周率を3」
もこの発想です。これに関しては
文部科学省の課したノルマが
皆が目標レベル到達
が影響し
ノルマ達成のため目標を下げる
対応となっています。
また、体育では
皆が揃って行進
と言う訓練を行います。確かに運動会などの催しでは、皆が揃って行動する姿は、見栄えがよくなります。しかしながら、こうした行動が、苦手な子供は、一定数います。そこで学校の場では
できない子
と判定すると、排除はしても強制はしません。しかしながら
苦手のレベル
は
強制してさせる
方向で動いています。
こうした
皆が同じ=平等
と言う発想が、学校教育に見え隠れします。
さて、平等には
多様性を認める
と言う側面もあります。
仏教の唯識の教えでは
自我が智慧になると平等性智
と説いています。これは深い意味があると思います。皆が同じモノを観ても、各人の経験や考えで、見え方は多様な展開になります。その一人一人の中に
仏の智慧を平等に観る
のが、平等性智の働きです。
現在社会に置いては、このような智慧が大切だと思います。