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不浄観について
仏教の瞑想法の一つに「不浄観」があります。これは
死体が朽ち果てる姿を観想して執着を断つ
修行として伝わっています。代表的な方法は
脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。
青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。
噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。
骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。
と言う九想で行います。こうした姿を想像すると、どのような美男美女でも、最後は腐り果てて、白骨となると言うことで
愛欲を去る
ための修行とされています。しかし、これだけで済ましてよいのでしょうか?
こうした修行は、お釈迦様の時代から有ったと、伝わっています。すくなくとも、6世紀に天台大師が説いた『摩訶止観』に書かれています。
さて、我が国で考えても
平安時代は死体が野辺に捨てられていた
状態です。つまり、当時の人にとって、九想の姿は、見ようと思えば、現実に見ることが出来ました。一方、現在の私達のような、生物学や医学の知識はありません。
このように考えると、九想は
時間的変化を見る
体内がどうなっているか知る
当時としては、限られた情報源の一つでした。
なお、6世紀では、紙は貴重品です。そのため、絵で伝えるなどと言う、贅沢はできません。現実にある『死体』を前に、修行する場合が多かったでしょう。
さて、お釈迦様の教えの原点は
生老病死
の四つの苦しみから
いかに救われるか?
です。こうした
死の恐怖
に向かい合い、解脱への道に導く、そのための不浄観です。
また、現在の科学的知識は
原因->結果
の関係を知識として教わります。しかし、6世紀の昔を考えると、そのような知識はありません。そこで
死体の時間変化
を観察することは
物の時間変化
を学ぶための貴重な機会です。こうして
無常
を体感したのです。