仏になって法界全てを観る
前に
摩訶止観の瞑想の見直し|鈴木良実
を書きましたが、その最後の「念仏観」の項目は、色々と書き足りない面がありました。
今回は、真言宗などの、密教の教えから
仏になる瞑想の必要性
について議論したと思います。
一つの切り口は、真言宗等では
大日如来
を本尊としています。これは、仏教の開祖である「お釈迦様」と違う
全てを含む仏
です。極端に言うと
お釈迦様も観音様もお不動様も
全て大日如来の力の現れ
です。
なぜ、このような「全能の仏」が必要でしょうか?
一神教なら全能の神は当然
ですが、大乗仏教では
皆に仏の力がある
と説いています。
私は、胎蔵曼荼羅から、この理由が見えてきました。胎蔵曼荼羅は、仏の慈悲や智慧を、色々な如来・菩薩・明王そして天部の神、という形で表現しています。
この多様な力を、私たちは一つ一つ理解できるでしょうか?そして現実問題に対して、具体的に展開できるでしょうか?
この問へ
全ての根源の大日如来
になって、自在に多様な現実に対応していくのが、一つの答えだと思います。
仏と一体になることで、法界全てを観る、これが本当の念仏観ではないかと思います。