日本的な本質への向かい方【改訂】
大乗仏教の伝承から、日本的な
本質への向かい方
が見えてきました。
例えば、「慈悲」の概念を伝えるため、仏教では
慈悲を体現する観世音菩薩
について、色々な像、絵、そしてお経の教えなど
多面的に触れさせ
ます。そこで修行すると
観音様の姿を見る
などの霊的体験も起こります。これを、禅宗などでは「魔境」として、退ける場合もあります。
しかしながら、真言宗などでは、このようなときには、十縁生句といって、対応法があります。まずは、こうして修行によって見えるモノは
幻・陽炎・夢・鏡の像
のように、実態のないものです。こうした
蜃気楼のような宮殿
に捕らわれてはいけません。しかしながら、仏の存在を本当に信じ、しかも自らの力を信じていると
仏の教えに応じて言葉の響きがあり
水に月が映るように
天の教えの雨が水面に泡を作るように
仏の教えが、私たちの心に響くことを感じます。つまり、仏の力が私たちに及んでいる。そして私たちは、それを見る力があると信じ見出すのです。
このように観ると
(仏の世界と比べると)
現実の色々なものも
目を閉じて浮かぶシンボルも
虚空の華のようなもの
と見えるでしょう。
さて、このような仏の働きが、色々と見えると
闇夜にたいまつを回すと丸い残像が残る
ように、仏というものが観えてきます。
こうした、神秘体験を絶対視せず、しかも頭から拒否せずに
必要なものを見る力
が人にあるというのが、大乗仏教の教えです。
さらに言えば
慈悲を行う観世音菩薩
を
具現化する
方法で、こうした抽象的な概念を伝えています。つまり、自分の心の中で
観音様を創り出す
力がある、これを信じて実行するのです。
さて、これを西洋文明と、比べてみました。古代ギリシャの哲学者プラトンは、大著「国家」を表して「正義」の概念の記述を試みました。
そこでは有名な「洞窟の比喩」で
私たち人間は物の本体を見ることができず
影絵のみ見ている
ただ哲学者のみが真実の姿に近づける
と説いています。ここで説く「本質」を、プラトンは「イデア」と名付けました。これは、ユークリッドの幾何学で使う
理想化して点や線
のようなものです。つまり
西洋文明は現実の多様性を
理想化してそぎ落として議論
する手法で、物事の本質に迫ろうとしたのです。つまり
一般法則を求めそこから展開する
発想です。
一方、私たち日本的発想には
本質を知り使いこなす人格
になるという発想があります。「慈悲」でいろいろと人を救う観世音菩薩、「正義」の刃をふるう不動明王という発想です。
ここでもう一度
「洞窟の比喩」の一面性
「十縁生句」の多面性
の理由を考えました。
大きな違いは
神の力に人間が到達できるか?
です。上で書いたように
観音様を心の中に創り出す
という発言は、キリスト教やユダヤ教、そしてイスラムでも
神だけが持つ創造力の侵害
という「重罪」になります。一方、大乗仏教では
皆が仏になる
特に真言密教は
即身成仏
ということで、こうした
自らが観世音菩薩になる
という発想も自然に認められています。
こうして
抽象的概念を
それを実行できる人格
として体現
という方法は、西洋文明にはない
日本独自の発想
だと思います。