学者的な論理の問題
なぜ左翼の活動家がについて、興味深い議論がありました。
日本の”右傾化”を脱却する『勝てるリベラル』の作り方 | アゴラ 言論プラットフォーム (agora-web.jp)
私もこの問題については、昔書きました。
元学生運動家が支持されない理由|鈴木良実 (note.com)
絶対の『正義』は危険|鈴木良実 (note.com)
議会制民主主義が機能するために必要なモノ|鈴木良実 (note.com)
この問題の本質は
学者間の論争法は政治と違う
にあると思います。つまり
学者の論争は理想的なモデルでの勝負
政治は現実的な妥協を通じて穴をうがつ
と言う違いです。古代ギリシャの昔、プラトンは
本質を見抜く哲学者の政治
をよしとしました。しかし、プラトンのイデアの発想は
現実の多様さ複雑さを捨てた抽象化
の成果です。一方、近代の社会学者、マックス・ヴェーバーは、二つの講演「職業としての学問・職業としての政治」で
学問と政治は違う
と説いています。
私は、学問の理論の力は、大きなモノがあると思います。そこで
得る見通し
は多くの可能性を拓きます。しかしながら
その実現は別のモノ
です。多くの生きた人が絡む社会、そこで皆が
何とか妥協できる線
を見いだすのが政治です。
これは、学問ので色々な成果を参考にし、その上で
皆が妥協できる世界の
物語を描く
のが政治だと思います。これは、プラトンが大著「国家」で
若い人の育成は詩人でなく哲学者
との反対と見る人もいるでしょう。しかしながら
プラトンは若い人の育成
について言っているのです。若いときに論理思考を育て、その上で
世界のイメージを詩的に語る
ことを否定していません。実際、プラトンには「ティマイオス』のような、詩情豊かな著作もあります。
もう少し言えば
現在日本は学者的論争術が強すぎ
ではないかと思います。
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