「正解」社会の歴史的必然
「正解」に縛られている私達について、学校教育の影響が大きいと前に書きました。
「正解」に縛られる人に|鈴木|note
今回は、このような「正解」社会が生まれた理由を考えました。
さて、現在の
学校的な正解社会
の誕生を見ると
明治の教育勅語
の世界から、学校の「正解」社会が定着しています。
そこで、この前の社会を少し見てみましょう。それは、幕末の混乱期です。そこでは
開国 VS 攘夷
尊皇 VS 佐幕
と言う思想的対立がありました。この状況で、説得による心変わりは、少しはありますが多くは
相手意見を天誅する
と言う殺し合いの世界になっていました。これは、理屈による理解でなく、ある種の信仰的なモノです。それはマックス・ヴェーバーが言う
神々の争い
であり、武力的な解決か、圧倒的な事実の力でしか、決着がつきません。
さて、攘夷論者に対しては、長州藩と薩摩藩が、イギリスなどと戦って、圧倒的な力による敗北を喫します。こうして
攘夷の熱を敗北の水が冷ます
ことで決着がつきました。
一方、尊皇佐幕の争いは、日本人の根底に
天皇崇拝
が有ることが一つの救いでした。つまり佐幕派も
天皇から権威を預かる将軍
と言う発想でした。そこで
錦の御旗
で一気に幕府軍が崩れていきます。なお、このような幕府軍崩れには、将軍であった徳川慶喜が、女系では有栖川宮の一門であったことも、大きく影響しているでしょう。
ここで一つの事例があります。幕末の水戸藩は、尊皇派と佐幕派に別れ、武力闘争に明け暮れました。完全な内乱状態です。そこでは、藩主の統率も効きません。もっと言えば
「藩主がどちらかの肩を持てば即座に暗殺」
と言う事態でした。そこで藩主は、どちらが勝っても
「そうせい」
と言うだけになりました。
そこで、鳥羽伏見の戦いの後、京都に於いて徳川慶喜の個人警護にあたっていた、水戸藩本圀寺党の頭領、鈴木重義は「除奸反正の勅書」を奉じて、水戸に入ります。水戸藩主徳川慶篤は、これを下座で受けると言う形で
尊皇を正しい
と決定しました。こうして
対立があっても天皇のお言葉で決まる
と言う実績ができていったのです。
明治政府は、この発想を上手く使って
殺し合いでなく天皇の権威での解決
と言う形に持って行きます。
また、明治期は全国民に対する教育の充実が、重要な課題になります。そこで
教育二関スル勅語 明治23年
が下されます。こうした
勅語による権威
は、天皇陛下の権威をそのまま頂くと言うことです。つまり
先生の言うことは正しい!
と言う無条件服従を、生徒に要求するようになります。これは、学校教育の急速に普及させるため
一様な基準による教育
の推進に役立ちます。つまり
教科書の裏にある模範回答書
を伝えるだけの「先生」でも、生徒は従わないといけないのです。
こうした
権力よる秩序
与えられた正解
と言う学校社会ができました。
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