日露戦争後に乃木軍が嫌われた理由
日露戦争後に、なぜ陸軍内部で乃木将軍が嫌われたか?
この問題を解くと、昭和に日本を敗戦に導いた、大きな『陰謀』が見えてきます。
まず大切なことは
旅順攻略において乃木軍の戦いは正しい
ということです。ただし
正しい戦いしかできなかった
点が問題です。ここで正しい戦いというのは
適切な物量を投入し
着実に攻めていく
方法です。日露戦争の全体では、このような戦いが行われました。旅順要塞の攻略においても、強力な28センチ砲を持ち込み、塹壕を掘る工兵にも鉄の盾などの防護を与える。こうした
まともな物的支援での戦い
でした。
こうした結果
日露戦争で陸軍の本当の勝利である旅順攻略
が実現しました。歴史の教科書では『奉天の会戦の勝利』を、陸軍の成果と書いていますが
ロシアにとっては戦略的後退
は、ナポレオン戦争以来のお家芸です。従って、会戦から、将軍が逃げていったとしても、ロシアにとっては負けと認めません。その点
難攻不落の旅順要塞の陥落
その結果として
乃木・ステッセル会談の写真
は、ロシアにとって陸での『負け戦さ』を世界に広げるものです。なお、海では日本海海戦という、誰が見てもわかる敗戦がありました。
このように考えると
乃木将軍は英雄
となってしまいます。
しかしながら、乃木軍の戦いでしたように
十分な物量を持った軍隊
を、当時の日本が、持ち維持することは、できません。日露戦争の遂行でも、海外の支援などで、かろうじて成立していました。
そこで、明治の国家指導者と軍部の指導者は、策を巡らせます。主要方針は
軍部内では精神主義で統一する
訓練至上主義
この象徴的な内容が、東郷平八郎の連合艦隊解散の辞にある
「百發百中ノ一砲能ク百發一中ノ敵砲百門ニ對抗シ得ルヲ覺ラバ、我等軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザルベカラズ」
です。つまり
「百発百中の大砲を扱う力があれば、命中率1%の大砲を百持ってきても、一門の大砲で対処できる」
というカルト集団顔負けの精神論です。
陸軍側でも負けていません。秋山騎兵団は
機関銃と鉄条網による野戦築城
という、物量作戦で、最強と言われたロシアのコザック騎兵を、撃退しました。これは
織田信長で言えば長篠の戦
の再現です。しかも騎兵の運搬力を用いて、何度でも実現するという、まさしく天才的発想でした。
しかしながら、秋山好古大将は、日露戦争の後は
騎兵の本質は桶狭間のような奇襲にある
と後進に教えています。ここでも
物を欲しがるより工夫しろ
と、陸軍軍人に精神論を叩き込んでいます。
さて、このような観点で乃木軍の戦いを見ると
まともな戦いで成果を出した
という部分が多すぎます。秋山騎兵団なら
長躯してロシア軍の後方攪乱
という、奇襲的要素もありました。これが少ない
真面目過ぎる乃木軍は困る
が、当時の日本指導者が考えたことでしょう。
さて、このような
精神論偏重軍隊
を、作るために、一つの陰謀が見えてきます。それは
軍人に対する偏向教育
です。具体的には
訓練の可能性の過剰評価
奇襲の過剰重視
です。ここで『陰謀』と言いましたが、陸軍の幹部教育をみれば、これがどのように行われたか、一部が見えてきます。
陸軍大学の教科書であった「機密日露戦史:谷寿夫著」を読むと、旅順攻略の乃木軍の戦いに関して
「工夫の余地があった」
と非常に控えめに表現しています。
なお、乃木将軍は、明治天皇への殉死なども含めて、大衆にとっては
軍神!
として、崇めたてるべき存在です。
そこで、陸軍大学生に対して
「お前達、優れたものだけに教える。実は、乃木将軍は無能だった!」
「彼は、奇襲を考えなかった!」
と囁くことで、多くの陸軍の『エリート』は
工夫し奇襲する
ことが重要であり
ソ連の戦車に対抗するまともな戦車を作る
より
火炎瓶を持った兵士の奇襲を重視
するような、カルト的な戦争指導者を生み出しました。
ただし、国のためを言えば
軍人の要求通りに装備を備える
より
精神論で抑える
軍の指導者は、悪くないでしょう。