大乗仏教の良い面悪い面
大乗仏教では、私達のような凡人にも
総てを知る仏の智慧
を持つ可能性を開いています。
これは、キリスト教などの教えである
神の世界は人間には到達不可能
と大きな違いです。
この違いを意識しないと、私達日本人は、西洋文明を本当に理解できません。
例えば、現在のアメリカでは、色々なIT産業が興っています。それに対する投資も活発に行われています。一方、日本では
「給付金を貯蓄に回されたら経済が回らない」
と言う政府の見解があります。これは経済学を少し学んだ人間なら
「貯蓄を元手に、銀行が貸し付け投資をして、経済を活性化しろ」
と言うでしょう。この議論が出てこないのが、日本の不思議です。
実は、このような投資に対する決断力の差が出る理由は、大乗仏教とキリスト教の、発想の違いがあります。簡単に書くと
キリスト教的発想:神ならぬ人間は完全でない、
間違いはある
大乗仏教の発想: 仏の智慧を持つ完全な人間が指導すべき、
間違いは許されない
と言う図式です。
なお、戦後日本の高度成長時代には、銀行も積極的な投資や融資も行いました。しかしながら、当時の日本には
アメリカに追いつけ
と言う、単純明快な方針がありました。これは多くの人が納得したので、銀行も動けました。しかし現在のような、多様な価値観や方向性があるときには
どちらを向くべきか解らない
ので判断ができなくなってしまいます。
そこで
「私は(何もしないので)失敗しないのです」
と言う人が多くなっています。
こうした状況で、アメリカ的な
「失敗しても善いから投資する」
発想に負けているのが現状だと思います。
このように大乗仏教が示す
「仏の智慧を我々が持つ」
可能性は、明治の文明開化や戦後復興などの、善い模範例があれば、それに対して皆が動くという風に、善い流れとなります。古くは奈良時代の行基菩薩や、平安時代の弘法大師空海も、多くの国家事業を指導しました。こうした『お上の指導』を素直に受け入れるのは、仏の智慧に従う善い向きです。
しかし、多様化で色々な方向があるときには、指導力がある人材がでにくいのも、大乗仏教の発想の弊害かと思います。
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