論理的な遅読
ここしばらく、遅読について、書いています。そこで、一つ気になったのは
熟読は人の心に寄り添う読み
と言う先入観が、あったように思います。
しかし私が
遅読で『国家』を読む|鈴木良実 (note.com)
を、書いたときの読み方は、確かに著者プラトンの
ソクラテス裁判への絶望
等には触れましたが、主な読み方は
論理的に考える
方法でした。
さて、この問題を一般化すると
論理的な遅読はあるか
となります。この裏には
論理的文章は情報取得のため
効率的な速読が有効
と言う発想があります。
私は
論理的な文章にも
じっくり読む遅読
があると思います。
もう少し言うと
論理的な遅読の成果
と言う観点もあります。つまり
情緒的な寄り添い
でなく何を求める、かという問題です。私の答えは
その文章が描く世界のモデルの構築
が一つの目標です。これは、マックス・ヴェーバーの指摘した、『理念型』の構築です。上に挙げた、私のnoteでは
古代ギリシャの哲学者が
ユークリッド幾何学を唯一論理とした世界
でした。
こうした、目標があると
論理的な遅読
が成立すると思います。
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