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不可思議の境地を観る その3

今回は、一つの事例として

『慈悲』

を観る場合を考えて見ましょう。こうした抽象的な概念を、どのようにしたら『観る』ことができるのでしょう。これは、『慈悲』でなくても『正義』でも同じ問題が出てきます。本来、政治を行う人は

「自分にとっての『正義』とはどのようなモノか」

きちんと理解して、支持者にも伝えるべきだと思います。

 さて、話を戻して『慈悲』も観るために、どうしたらよいでしょう。まずは

「『慈悲』の字面を見る」

と言う答えを出す人もいるでしょう。しかし、これだけで満足してはいけません。もう一歩進むと、辞書に書いてある

「慈しみ、哀れみの心」

と言う定義を思い起こす人もいるでしょう。しかしながら、ここでも、文字面の上での話に止まっています。

 そこで、お経などで『慈悲』について、書いてあることを見てみましょう。お経では

「親が子供を助ける」

等の行動の事例で『慈悲』を描いています。この時、直接的な話だけで無く、色々な譬え話を用います。

 こうした具体的な行動のイメージを、描いて重ねていきます。ここから、共通的ものを見いだす。これは一つの『観る』成果です。

 但し、この具体例は、善い事例だけで済ませるわけにはいけません。親子の事例で言うなら、いわゆる『問題児』に困らさられても

「それでも『生まれてくれてありがとう』といえる」

状況まで向かい合います。

 こうして

「地獄から仏」

まで全てを見る、これが本当に観ることにつながります。

 しかし、これだけでは、まだ『不可思議の境地を観る』とは言えないのです。もう一歩進んで

「自らが慈悲を行う立場になる」

つまり

「仏や菩薩の心になる」

ことで、

「自分の心の中に慈悲を行う力を描く」

ことができれば、本当に観ると言えるでしょう。 

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