考えるのは「論理」だけか
私達は、西洋の近代文明で、色々と教育されています。確かに、西洋文明には、古代ギリシャの哲学からの、素晴らしい蓄積があります。その一つの成果が
ユークリッド幾何学等の
「論理的」な思考法
です。これは、幾何学だけでなく、物理学などにも使われています。このような「論理」は
理論的な説明や予測
の能力を、私達に与えてくれました。
しかしながら、ここで大切なことは、論理の展開のためには
理論が成立する理想化
が行われている点を見落としてはいけません。例えば、現在の工業化の基礎理論になる、ニュートンの力学は、太陽系を
大きさの無い質点の体系
として考えています。こうした、地球の大きさや、形状などの細部を無視したことで、綺麗な理論が展開できました。こうした、理想化の働きは、自然科学だけでなく、社会科学などでも活用されています。マックス・ヴェーバーは「仕事としての学問」で、プラトンの洞窟の比喩を紹介しています。https://amzn.to/3kSI5ic
こうした
イデアの世界で学問理論を展開
する手法は、西洋文明の発達に大きく貢献しました。
しかしながら
理想化で落ちるモノ
があるのも事実です。そこで、社会科学では、ミルズの社会学的想像力などが提案されています。
しかしながら、私はもう少し踏み込んで、古代ギリシャの哲学と、別の道に行くべきと思います。プラトンは、イデアの提案をした大著「国家」の中で
若い人の教育は詩人ではなく哲学者が行うべき
と述べています。
ここでプラトンが、教育的に否定した
詩的世界記述
の発想が
その世界を想像し
色々な動きを展開する
方法で
説明や予測を行う
場合にも使えると思います。
こうした手法の、一つの事例は
仏教の経典
です。例えば、法華経には
お釈迦様が霊鷲山で多くの弟子に法を説く
等の、豊かな物語の詩的な展開と
親子関係などの比喩
を通じて私達に教えを伝えています。
こうした発想を、もう一度見直すべきではないでしょうか。