他の自我になる読み方
昨日の続きで、小林秀雄や山本七平の流儀について、今回は
(唯識など)仏教の発想
での理解を試みます。
唯識 - Wikipedia
まず、唯識の心の捉え方は
五感・・・前五識
意識・・・第六識
末那識・・・第七識
阿頼耶識・・・第八識
の八レベルで考えます。私達が、言語で考える部分は、上の第六識です。
さて、私が注目したのは
末那識(第七識)の働き
です。末那識は、六つの識の背後で自我として働きます。もう少し言うと
全てが入っている阿頼耶識から
自分に必要な情報を選ぶ
働きがあります。私達は
自分の価値観
宗教
そして常識
の影響を受けています。小林秀雄は
本居宣長は古事記を読む時
上代人の目で上代人の世界に入る
と言う手法に賛成し、自分も宣長の目で見ようとします。
この発想は
末那識が作っている自我を意識し
別の世界や自我を思いやる
手法です。私達は、自分の自我の影響を忘れて
自分の価値観を押しつけ
てしまうことがあります。
例えば、織田徳川連合軍が武田勝頼軍を破った、長篠の戦いについて、考えて見ましょう。
私達が描く、長篠の戦いは
武田の騎馬軍団の突撃を
織田徳川軍の鉄砲が打ち砕く
と言うイメージが多いと思います。特に、織田徳川軍の
鉄砲の三段打ち
が、現在の学者達などでも議論が出ています。ここで大切なことは
現代のイメージで考えない
ことです。
例えば
騎馬軍団の突撃
は
現代軍の整列突撃ではない
です。当時の騎馬軍団と言っても、馬に乗った士の回りに、多くの足軽や雑兵が徒歩で従っています。そのような状況では、騎馬武者が横一列で突撃などは難しいでしょう。
次に、鉄砲三段打ちについても
金属薬莢の現在の鉄砲ではない
火薬と鉛玉を銃口から毎回入れる
と言う作業があります。これは、テレビの番組などで見た人も多いでしょう。この作業を考えると
三段に分けて切れ目無く撃つ
というのは、あり得ないと解ります。
しかし、もう少し当時の状況を想像しましょう。当時は
火薬も鉛も貴重品
でした。武田軍では、鉄砲玉にする鉛がなく
銅銭を鋳つぶして弾丸
にする状況です。つまり
一発撃つのが精一杯
と言う状況でしょう。
一方、織田信長は堺を手に入れて
弾薬を豊富に持っていた
ので
再三撃つことが出来た
と言う違いがあります。これを見て
三段に撃った
と言う記録が残ったのでしょう。
このように
その時代に生きた人の自我
を感ずる読み方が、小林秀雄の流儀であり、山本七平を実行していた方法です。