源氏物語ー融和抄ー輝く日の宮
五十四帖に秘められた事について書いたところですが、実は『源氏物語』には失われた巻があると伝わっています。
現代までにたくさんの写本が存在し流布してきただけに、数え切れないほどの異説があるわけで、完全に解明できる日がくるとは到底考えられないほどです。
そこでひとつ考えられる事を述べるとすれば、現在の巻名、巻数に落ち着くに当たって、後世の人の手が加わっている可能性は大きいということです。つまり、五十四帖に落ち着いたのも、紫式部の意図するところではなく、他の人の意図したことであったかもしれないし、まったくの偶然だった可能性もある、ということです。
しかしそれならばそれで、現在の事実が見せる神秘の中に、ひとかたならぬものが感じられる、それもまた不思議な話ではあります。
その中で、私が気にかかったことを書き留めておこうと思います。
まず、藤原定家による、「輝く日の宮」という巻があったという説について。
あくまでも仮説ではありますが、当初はこの題名で書かれた短編的な物語だった可能性も考えます。『源氏物語』は後世になるまで、確たる題名が存在せず色々な呼び方をされていたようなのです。「輝く日の宮」という題名は、もしかしたら当初に存在した名称だったかもしれません。そう読んでは不都合なことがあったのかどうか、いつしかそう呼ばれなくなったのではないかと考えます。
多くの説では、「桐壺」巻の事だとされます。桐壺といえば光源氏誕生の巻です。
『ホツマツタエ』では、第三代安寧天皇が磯城県主の館で生まれた時、朝日が光輝いたと伝えています。
次に気にかかったのは、「スモリ」「サク(ラ)ヒト」「サムシロ」という三巻が存在したという説。
巻名だけが残る「雲隠」を思うと、他にもそのような巻があったとも考えられるし、他のものは内容ごと取り去れたものの、「雲隠」だけはどうしても外しきれず巻名だけが残された、なども考えられます。また、既存の巻名が変わったものだったり、外伝的なものが存在した可能性もあるでしょう。
人の手で書き写して広まってきたものだからこそ、人情や世情の流れと共に変化したり失われたりしたとしても、不思議ではなく仕方のない事だったのかもしれません。
分かっていることは、いつしか『源氏物語』五十四帖になっていた、ということです。
そしてこれは個人的に思うことではありますが、(夕顔と頭の中将の娘)玉鬘が、まさかの髭黒の右大将の手中に落ちたという…その経緯を知りたいものです。
こういうことを考える時、この前に一巻あったかも…とつい思ってしまいます。
さて、この章はこの辺りで終わりにしようと思いますが、後日に融和抄をまとめることがあった際に、失われた章になるかもしれません。
この先も様々な検証をしながら書き進めた結果、不要となる可能性、または大幅に修正する可能性があるからです。