Over the dream 糸
中将姫のことをいつ知ったのか定かではない。
当麻寺を初めて訪れたのは、20代半ばだった。
その頃は何も知らなかった。
仏教のことも、文学のことも、歴史のことも。
大学で歴史を学びながらもそうであった。
そしてそれはそれで、特に問題ではなかったのだろう。
初めて訪れた日のことをよく覚えている。
夕方近く、陽が傾きかけていた。
境内の片隅に座り込んだ。
本当の静寂を知った。
その感覚が知らず自身に染み込んだものだろう。
私はその後も何度かひとり訪れ時を過ごし、友人が訪ねてくれば案内して連れていった。
牡丹で有名なお寺だと認識したのは、ずっと後のことだった。
どの本が伝えたものだったか、中将姫は西方の山に落ちていく夕陽に感応して当麻寺へ行き着いたという。
そこに何かがある、行かなければと思ったのである。
中将姫を伝えるものは多く、その伝承内容もバラエティに富んでいる。
しかし、当麻寺を舞台とするものでは、必ず共通していることがある。
蓮の茎から取った糸で機を織ること、そして、阿弥陀如来に迎えられ極楽往生を遂げること。
当麻寺に伝えられるものでは、夢の中に観音様が現れて、その導きで当麻曼荼羅を織り上げたとし、その観音様を織姫観音と呼び尊像が安置されている。
天羽雷命は様々な名前をもち祀られているが、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男=天津甕星を服従させた神とされる。その際言葉で従わせたとされているが、武神であったとも伝わる。
しかしその実体は機織りの神様である。
元当麻町史では、字志登梨というところに棚機の森があると伝える。
昔、ここに葛木倭文坐天羽雷命神社があったという。
同社を新庄町の博西神社へ遷座した時、途中で日が暮れた為、そこに日暮神社を祀った。
加守にある倭文神社は後にこれを遷したものだともいう。
現在棚機の森は太田という地にあるが、ここにいう棚機の森と同じであるようだ。
現在は整備され鳥居が設けられ、棚機神社とし、棚機の日には祭りが行われている。
この辺りに朝廷に献上する布を織る氏族が暮らしていた。
5世紀頃、大陸から来た人が、それまでになかった最新の棚台付きの織り機(いわゆる棚機タナバタ)と、絹などの高級織物を作る技術を伝えた。
それと共に、「牽牛と織女の七夕の物語」や、中国の乞巧奠(きっこうでん)と呼ばれる、機織り技術の向上を願う祭りの儀式を、この村に最初に伝えたと言われている。
棚機の森と呼ばれるこの地に伝わっていたのか、神社の入り口の立て看板に、美しい物語が記されていた。
棚機伝説は天の川にわかたれた牽牛と織女の物語がセオリーだと思っていた。
恩返し系のニュアンスを持つこの物語の、娘が空に輝く星座の世界を織物にしたところに心惹かれる。
そして何故か、丹後の「比治山の真名井伝説」を思い起こすのである。
織物の神を祀る里があり、大蛇の尾に当たる長尾神社がある葛城地方。
大和高田市の石園坐多久虫玉神社の祭祀に、この辺りの氏族が関わっていても不思議はない。
『儺の國の星』の著者真鍋大覚は、昔太宰府辺りを葛城と言ったと記す。
そして、葛とは女性が持つ布(古代には比礼といった)の事を言うとする。
現在も葛城峰があるが、大和・紀伊の修験道に倣ったものだともいう。
小郡市大崎、宝満川沿いに七夕神社があり、この辺りで織物が盛んだった事を今に伝える。
祭神は織女神と姫社神。
神社の正式名称は、姫社神社である。
姫社神とは、物部氏祖神の饒速日命。
織女神とはその母、万機秋津比売命。
宝満川を挟んだ対岸の老松宮に牽牛社がある。
七夕の物語に因んで祀られたようだ。
老松宮には織女の相思の相手、彦星の和名である犬飼神の木像があるという。
真鍋大覚は、倭人は渡来人のことを犬飼様と呼んでいたと記す。
宝満山の竈門神社の主祭神は玉依姫命。
673年、開山心蓮上人が山中で修行中に玉依姫の神霊が現れ祀ったという。
調べてみると、主祭神は相殿神の神功皇后の姉、応神天皇の伯母とみなしているという。
『筥崎宮縁起』がそう伝えているようだ。
神功皇后に姉がいたのか?
記憶が錯綜する。
物部氏、機織り、七夕伝説、太宰府、葛城。
大和、葛城、棚機、遷された天羽雷命、玉依姫、物部氏。
朧げに、石園坐多久虫玉神社祭神、建玉依姫がゆらめく。
竈門神社祭神と石園坐多久虫玉神社祭神の玉依姫は同神ではないだろうか。
三輪山の神、大物主が通った姫だ。
一般的には葛とは、カツラの語源となったように、髪飾りのことをいう。
髪と一緒に、葛を編み込んでいたようだ。
垂仁天皇と最初の皇后狭穂姫との間に生まれた本牟智和気命は、長じて髭が胸先に達しても言葉を発する事がなく、赤子のように泣いてばかりいたと『日本書紀』は言う。
その後のストーリーには複数の伝承がある。
そのうちのひとつ、『尾張国風土記』にはこんな話がある。
皇后の夢に多具の国の神、阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝がいないので、自分を祭祀してくれる者があれば、皇子は話せるようになり、寿命ものびるだろう」と言った。
そこで天皇は日置部らの祖、建岡君に祀らせることにし、祀る場所を占わせた。
建岡君は美濃国の花鹿山に行き、榊を折って鬘(髪飾り)を作り、ウケイして「この鬘が落ちたところに神はいらっしゃるだろうと」と言って投げた。
鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡に落ちたので、同地に社を建てた。
その地は鬘が訛って、阿豆良(あずら)の里と呼ばれるようになった。
多具の国は出雲国にあり、阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる、天甕津日女と同神とされる。
この女神は衾伊農意保須美比古佐和気能命の妃である。
また、天御梶日女とも同神とされ、この女神は阿遅鉏高日子根神の妻で、阿遅鉏高日子根神は『出雲国風土記』において、本牟智和気命と同じように大人になっても子供のように大声で泣いたと伝えている。
阿遅鉏高日子根神は葛城地方由来の神である。
ただしこの説は、事代主の妃だとするものもある。
ここで考えたいのは、鬘が落ちたのが尾張国丹羽郡であったこと。
竈門神社の祭神のひとり、神功皇后の母は葛城の姫であるが、父息長宿禰の父母の名には丹波がついている。
父方は丹波との関わりが強かったのかもしれない。
天甕津日女の父は星神香香背男=天津甕星であったともいう。
星神だ。
それを服従させた天羽雷命を祀る葛城の地と天甕津日女は、何か関係があっただろうか。
仮に阿遅鉏高日子根神の后であったのなら、言うまでもない。
『源氏物語』の玉鬘を思う。
『日本書紀』において、玉鬘は人ではなかった。
玉鬘という宝冠を婚約の証に用いられた姫は、草香幡梭姫皇女という。
織女を思わせる名だ。
紫式部は天甕津日女と玉鬘の間に何かを感じていたのではないだろうか。
唐突だが、上賀茂神社の片山御子神社・通称片岡社の祭神、賀茂玉依姫命は、石園坐多久虫玉神社祭神、建玉依姫命と同神と考える。
つまり、竈門神社主祭神、玉依姫でもある。
分かっていたからこそ、紫式部は片岡社を好んだのである。
玉依姫の着物の裾に通した赤い糸は、三輪山へ続いていた。
玉鬘を天皇ではなく、髭黒の右大将に嫁がせた訳は、大物主が天皇ではなく、武神であり、蹈鞴に精通する神である事を示したものだろう。