源氏物語ー融和抄ー浄土信仰からみた物語
光源氏は初めに二条院と呼ばれる邸宅を持ち、更に六条院と呼ばれる大邸宅を造ります。光源氏、三三歳の頃の事です。
四町からなる広大な敷地、約二四〇メートル四方です。それを四つに区切り、四季で表しました。
春の町に紫の上、秋の町に秋好中宮、夏の町に花散里、冬の町に明石の君がお住まいになりました。
この六条院が源融の六条河原院だったかどうか記述はありませんが、六条にそれほどの大きな敷地を所有したとなれば、自ずと源融が思い起こされたことでしょう。
これより先、「夕顔」の段では「どなたかの廃院」が描かれますが、その廃院も廃れてしまった六条河原院の事だと考えられています。
「松風」の段で、光源氏は大覚寺の南に嵯峨の御堂を建てたとあります。これが、位置からみても現在の清涼寺、執筆当時は源融の子息が寺にした棲霞寺であったと思われます。
源融はここに阿弥陀三尊の造立を請願するのですが、完成前に亡くなってしまいます。
物語では光源氏も晩年をここで過ごしたことになっています。
源融ですが、六条河原院と棲霞観の他に、現在の京都府宇治にも別荘を持っており、その跡地が平等院鳳凰堂です。
平等院鳳凰堂は、紫式部が仕えた彰子の父藤原道長の子頼道が譲り受け、極楽浄土を現世に現したように寺院を建立し、現在も多くの人が訪れています。六条河原院は残念ながら廃れてしまったのですが、二つの別荘は今も多くの人が参拝に訪れる寺院として遺されています。
こうしてみると、当時の浄土信仰の隆盛が顕著に現れているのが分かります。
物語中には、紫の上が暮らす春の町の様子はまことに極楽浄土のようだと喩えるなど、随所にそういった記述が出てきます。
これは紫式部の思想というより、当時の貴族階級の一般的な感覚だったようです。
浄土宗の開祖法然が生まれたのは1133年のことなので、当時の浄土信仰は後の浄土宗とは異なります。
では、当時の浄土信仰とはどういったものだったのか、ここで少し触れておきたいと思います。
末法の世への不安が高まるにつれ、平安貴族の間では浄土信仰が高まりますが、貴族達が考える浄土とは、この世においてその美しさを味わおうとする美的な欲求が強いものでした。
現代でも美しいものを見て「目の保養」と喩えるように、美しいものをみたり、そのような空間に身を置いている時に、極楽へいったような心地になる。そういった体験をする為に、財を投げ打って荘厳な建物や仏像を造ることが多くなっていきます。
こういった動きが国風文化の円熟とも相まって、浄土信仰を中心とした仏教美術を発展させたことは、今日の日本においても大変有意義なことではありました。
『源氏物語』の中でも、先述のように極楽浄土を想像させる場面が随所に盛り込まれ、当時の様子がそのまま物語の中に吹き込まれています。
中でも、光源氏こそがその際たるもので、登場人物は誰も彼も、光源氏の美しさにこそ極楽浄土を見出すのです。
浄土信仰という視点から物語をみた時、それが紫式部が意図したものかどうかは図りかねても、事実平安貴族達は光源氏を中心として、自分達もそれが織りなす極楽世界にいるような心地を味わっていたのでしょう。
それこそが、この物語が千年もの間読み続けられてきた原動力なのではないかと私は思います。