ものを書くときの下心
ものを書くということは、不思議な面をもっている。
私は頭の中を整理するためや日々のことを記録するため、また、どうしようもない怒りや不安から抜けだすために、しばしばものを書く。
過去に自分が書いたものを見返してみると、読めないほど崩れた字で書いてあったり、読むに堪えない内容だったりして、自分の醜悪な面をまざまざと見せつけられ、自己嫌悪におちいるなんてこともある。
最近は、散歩していると、金木犀の香りがする、気持ちのよい季節になってきた。この香りとともにかつての小さな栄光の記憶がよみがえる。
小学生のころ、数行程度の日記を提出するという宿題があった。クラス全員の日記の中から、担任の先生が気に入ったものをひとつ選んで、週一回発行のクラス報にのせる。
その中で登下校中の金木犀の香りについて書いた私の日記が選ばれた。毎回私の日記が選ばれていたわけでもなく、特に先生や親から文章を褒められることもなかったのに、いや、だからこそ、そのことが印象に残っていて、今でもふとした時に思い出す。
そのときの、ちょっとした裏話がある。小学生の私は、実はクラス報に日記を選ばれたかったのだ。そして、その金木犀の香りのする通学路の話を書こうと思ったとき、これは、担任の先生の好きな話になりそうだな、とニヤリとしていたのである。我ながら当時の自分が憎たらしい。
そして当然のことながら、どうやったらクラス報にのるような文章になるだろうかと考えながら書いた。季節の移り変わりを愛でる先生の嗜好にあって、小学生が書いて微笑ましく爽やかな気持ちになるような文章を。
というわけで、私の日記が選ばれたときは、嬉しかった、というより、してやったり!という気持ちだった。
これは、私にとって、人の目を気にして書いた文章が評価されたという経験だ。小学生には発表をしたり制作をしたりという機会が多い。自分の思うがままに心の中にあるものを映し出したマンガや作文を発表したこともあったが、周囲の大人は神妙な顔つきになるか、困った顔をした。その内容が褒められたものではなかったからであろう。つまり、私が社会的に生きていくためには、思ったまま行動するより、人の目を気にしていくことが必要なエッセンスだった。それは、文章にとどまらず、交友関係、容姿、話し方までに広がるもので、私の生き方の問題にもゆくゆくはなるのだが、ここでは割愛。
冒頭で、自分の書いた文章に落ち込むというような話をしたが、それは当然、人の目を気にせず、心の中のものを吐き出した文章だからだ。時間がたって、冷静になって自分を客観視した状態で読み直すと、自分でもあきれるほどの醜さがそこにある。
20代の若いとき、人の目を気にせず自由に生きる、という言葉を目にして、とてもかっこよく感じ、私もそのように生きたいと思い、わがままに生きてみたが、私が人の目を気にしなくなったら、この殴り書きの文章のような醜さが露呈するだけなのでは、と最近は思うようになってきた。自分の中にあるものを純粋に出したものが人の心を動かしたり、清らかとまでもはいわず、明るい気持ちにさせる人は、本当の自身が明るい人なのかもしれない。私のようなものは、人の目を気にしていくことが、社会生活を営む上でのセーフティーネットになっているような気がする。