哲学的パネルでポン2.5 -桜井さんから学ぶパネポンのゲーム性と一般性、パネポンの魅力は何か?-
おはようございます、こんにちは、こんばんは、鈴見です。
今回は、哲学的パネルでポン2(以下、哲パネ2)の補足編となります。
なぜ補足編なのかと言えば、説明不足の部分があったものの、その部分を説明すると脱線してしまうだろうという予感があったためです。
どこかと言えば、タイトルにもあるように『ゲーム性と一般性から見るパネポンの難しさ』の部分です。
説明不足だったことも加え、「もっと深掘りしたら、もう少しパネポンのことが分かるのではないか?」と個人的に思っていた部分でした。
なので、改めて考えて深掘りしていこう…そういう記事であります。
ということで、哲パネ2の内容をある程度前提にした話になります。
また、申し訳無いのですがかなり分かりづらいと思います、ご了承ください。
おさらい
桜井政博さんの動画を引き合いに出し、リスクとリターンについて少し話をしました。
そして、リスク・リターン・ゲーム性・一般性の関係性は、動画から考察するに…
ではないか?という式を出しました。
そして、パネポンはどれに該当するかと言えば…
と、結論付けました。
それは、考える・パネル入れ替え・攻撃をする、というパネポンにおける基礎動作をしても、返ってくるものは自分にとってリスクの大きいものばかりだから(例:考える→時間が経過する→天井に近付く→死の接近)、という理由が1つ。
そして、相対的ではありますが、ぷよぷよやテトリスと違ってリスク0から始められるゲームではないから、ということを理由として挙げました。
この2つの理由は、触れたて・熟練に関わらず共通のものです。
理由としては挙げたのですが、これらの説明が少し甘かった・大まか過ぎたと思うので、ここから話を進めていきたいと思います。
リスクとリターン
まず、リスク・リターンという言葉を使っているけど、これらは一体何なのか?について見ていきたいと思います。
哲パネ2では、リスクとリターンを費用と効果、操作と効果、消費パネルと攻撃など、かなり言い換えをしました。
ですが、あまりにも多岐にわたってしまい大変なので、もう少し大まかに捉えようと思います。
ちゃんと調べてみると、リスクとリターンとは…
と言われているようです。
まだ分かりづらいと思うので、もう少し簡潔にしてみましょう。
危険度合い、将来がプラスかマイナスになるか分からないという不確実性とは、現状から不確実性があると判断している、とも見れます。
マリオで言えば、クリボーが敵かどうかプレイヤーがまだ判断できていない状態です。
プラスマイナス問わず何かしら返ってくることとは、ある1つの視点から見て「これは良い」「あれは悪い」と決めているのですが、どちらにせよ何かを得ていると自分が認識している、ということだと思います。
マリオで言えば、マリオがクリボーを踏んづけて倒したか、クリボーに横から当たってマリオがやられてしまったかのいずれかをプレイヤーが得ている状態です。
これらを簡潔にまとめると…
ということであり、もっと概念的にするならば…
とも言えるのではないかと思います。
これで広い意味で捉えられるようになったのではないかと思います。
一般的な使われ方として、リスクはネガティブ、リターンはポジティブと捉えられているイメージがあります。
ですが、本来の意味からするとリスクの中にもリターン性があり、逆にリターンの中にもリスク性があるように見えます。
物事は基本的にリスクとリターンの両方を内包しているものだと思います。
1枚の紙にしても、ある方向から見れば表であり、ある方向から見れば裏です。
表をリターン、裏をリスクと捉えたときには、表を見たときには裏にはリスクがあり、裏を見たときには表にリターンがあるイメージです。
少しややこしい話かも知れませんが、ポジティブだからと言ってネガティブが無いとは言えず、逆もまた然りだということは頭に置いておきたいところです。
余談ですが、パネポンはコスパが悪いという体で話をしていましたが、これは少し訂正しなければなりません。
コスパが良い部分も存在しており、それは初期盤面・パネル入れ替え・せり上げです。
まとめて言えば、基礎動作はコスパが良いのです。
どういうことかと言えば、哲パネ2ではパネポンは『10の費用に対して1の効果しか得られないゲーム』と言いましたが、基礎動作に関しては逆で『1の費用に対して10の効果』が得られます。
これらの基礎動作に関しては、以前はリスクだと捉えていました。
ですが見方を変えれば、初期盤面はたくさん材料を最初に与えられており、パネル入れ替えは1ボタンで2個のパネルが動き、せり上げは1ボタンで6つの材料が手に入る、とも言えます。
『基礎動作が常にリスクと隣り合わせ』とも言っていましたが、結局のところはリターンの裏返しだったのです。
リスクの高低・リターンの高低
物事が裏表の両方を内包しているということを頭に置いたところで、リスクの高低・リターンの高低を言葉にするならば…
と言えます。
イメージがしづらいので、パネポンで例えていきます。
だいぶ偏った見方をしているため、ケースバイケースは一旦除外してくださると大変助かります。
大まかに見ると、リスクは認知→不確実性→判断、リターンは行動→不確実性→受容という順を辿っています。
どちらにも共通して言えるのは不確実性を経由しており、そこに分岐点があります。
この不確実性とは、リスクとリターン自体の不確実性と言うより、人間による不確実性です。
認知における不確実性で言えば見間違えなどがあり、行動における不確実性で言えば操作ミスなどがあります。
不確実性と一言で言っても、何によって不確実にされるかもまた不確実なのです。
ですが、不確実性を経由するという共通性はあります。
つまり、リスクとリターンには安定した不確実性があるのです。
これはゲーム性の話に繋がっていきます。
純粋なリスク・純粋なリターン
リターンの中にあるリスク、リスクの中にあるリターンについて見てきましたが、それとは別に純粋なリスク・純粋なリターンも存在すると思います。
純粋なリスク、純粋なリターンって何?という話ですが…
言葉として少し変ですが、このような分け方ができるかと思います。
これらを簡単に言えば、純粋なリスクはネガティブ、純粋なリターンはポジティブといったような、一般的に使われるようなニュアンスに近い表現になるかと思います。
プラスが見込めない能動性とは何か?と言えば、具体的には、アクションゲームなどで『敵がたくさんいる中に飛び込んだのに、飛び込んだ先でじっとしている』ということかと思います。
シンプルに言えば『無防備』の状態です。
「敵はどういう動きをしているか?」「敵をどうやって倒そうか?」と観察したり、考察している時間かも知れないので、プラスと言えそうな雰囲気はあります。
しかし、あくまでゲーム上で表示されている結果としては、ただただリスクが近付いてきており、それを受け入れている状態と言えます。
飛んで火に入る夏の虫、と言ったところでしょう。
そういった状態を抜き出した場合は、純粋なリスクと言えます。
逆に、マイナスが見込めない受動性とは何でしょう?
スーパーマリオワールドを引き合いに出すと、『敵がおらず地形も安定した場所で、アイテムストックからキノコかファイアフラワーを呼び出す』かと思います。
敵がいないという部分に着目して言えば、敵が無しの『無敵』とも言えます。
「なぜキノコかファイアフラワーなの?」と思われるかも知れませんが、マントマリオになるためのハネのアイテムは、アイテムストックから呼び出した場合、フラフラと落ちてくるためです。
フラフラとしているアイテムだと、プレイヤーが追いかけたくなってしまいます。
追いかけてしまったがだめにアイテムを取れなかった、とか、穴に落ちてしまった…という経験はありませんか?
私はあります。(n敗)
子供がボール遊びしている状況があったとき、コントロールを誤ってそのボールが道路に出てしまい、そのボールを追いかけてきた子供が急に道路に飛び出してきて、車などと衝突してしまったという事故例を聞くかと思います。
動物を見れば、逃げるものを追いかけて飛びつく、といった光景も目にするかと思います。
子供も動物のどちらの例も、ボールや逃げるものから目を離すことは恐らくほとんどありません。
これらから、生物は自分にとってメリットのあるもの、自分の所有物、所有物になり得るものなどに対して追いかける・注目する性質があると見ることができます。
そして、これは動くアイテムの場合の話です。
これをフラフラしないアイテムの話にしていくと、アイテムが自主的に逃げていくものではありませんし、プレイヤーにとってメリットのあるもの・所有物・所有物になり得るものであったりします。
そこでアイテムに注目をしつつも、周りを少し警戒したりするかも知れません。
しかし逆に言えば、周りを少し警戒する余裕があります。
そこで危険が無いと判断すれば、アイテムなどを手にするでしょう。
これは表示されている結果としては、『危険が無い中でプラスのものを無理せず手に入れることができる状態』と言えると思います。
これはマイナスが見込めない受動性です。
厳密に言えば、スーパーマリオワールドは時間制限制なので、本当のマイナスが見込めない受動性かと言われると少し違います。
そして、もしかしたら「プラスのものを無理せず手に入れるに至るまでは、無理をしているかも知れないじゃないか」と思われるかも知れません。
ですが、あくまでこれは1シーンを切り抜いた部分を見ており、仮定は見てるが過程は見ていないと思って頂けると幸いです。
ゲームはいかに無を無くせるか
それぞれを定義してきましたが、ゲーム中で純粋なリスク・リターンが発生するかは、かなり怪しいところがあります。
先程も似たようなことを言いましたが、ある1シーンに絞るなど着眼点を絞らなければ発生しないのではないかと思います。
理由としては、身も蓋もありませんがゲームは基本的にそのように作るはずだからです。
ゲームには、ゲームという課題とそれを解いていくプレイヤーの関係があります。
プレイヤーは横暴な言い方をすれば解くだけで良いのですが、ゲームは〇〇するだけとはいきません。
純粋なリスクだけを課題として出しても、プレイヤーが損だけをした気分になって嫌になる。
純粋なリターンだけでも、最初は楽しいかも知れないが次第に飽き、つまらなくなってしまう。
プレイヤーが成す術も無く無防備な状態でいれば、敵などがいない無敵な状態であれば、対策やゴールなどの目標が無いに等しく、安定した不確実性を得られません。
なので、純粋なリスク・純粋なリターンは限定的なシーンを残して淘汰されていきます。
そして、残った不確実性たるリスク×リターンの関係性でゲームが構築され、ゲーム×プレイヤーの関係性を築いています。
ゲームは塩梅が大事であり、アンバランスが過ぎればゲームとプレイヤーの関係はバラバラになってしまいます。
安定した不安定の上にゲーム×プレイヤーの関係は成り立っているはずですが、無の上にゲームとプレイヤーの関係を作ってしまっては、n×0=0であるように、無関係な存在たちになってしまいます。
ゲームがゲームになるためにはプレイヤーありきであって、プレイヤーもまたプレイヤーになるためにはゲームありきであって、お互いの個性が発揮されるためには無関係でいることはできません。
お互いがお互いであるためには、無を極限まで無くさなければならないのです。
一寸前は光、一寸先は闇
純粋なリスク・純粋なリターンが分かったところで、具体的にパネポンに落とし込んでいきましょう。
リスク×リターンについては、哲パネ2で説明しているので、そちらをご参照ください。
大体こんなところかと思います。
説明の都合上、純粋なリターンから見ていきたいと思います。
純粋なリターンは比較的数があります。
特にLv10でのお邪魔対戦は純粋なリターンを駆使して戦います。
スーパーマリオブラザーズ3にて、無敵になれるスターを取り続けながら、触ると死んでしまうブラックパックンの上をひたすら駆け抜けるステージがあったと思いますが、まさにそのイメージです。
マリオにおけるスターは大体のタイトルで一定時間無敵になれる効果だと思います。
対してパネポンにおける無敵時間は一定時間無敵になれますが、時間としてはほんの僅かなもの&攻撃の種類によって無敵時間の長さが違うため、ピョンピョンと跳ねるマリオのスターと比較しても極めて不安定なものです。
ですが、その辺にスターがいっぱいあるような状態です。
いっぱいあるとは言ったものの、パネルの数というリソース、相手から送られてきたお邪魔パネルの種類、自分の実力によってスターを取れるかどうかが決定されます。
自分の実力に依存すると言っているのは、自分の盤面をどう動かすかによって純粋なリターンを得られるか否か、そしてその量が左右されるためです。
逆に言えば、実力があれば純粋なリターンを受けられる機会と量が増えます。
そして、リターンの有効活用も実力があればあるほど多くなり、リターンをよりリターンとして感じられます。
つまり、実力があるほどマイナスを見込めなくなっていきます。
なので、初心者と上級者では純粋なリターンについては差がつきます。
純粋なリスクは、パネポンにおいては死に直結します。
死に直結する・死んでしまうのはプレイヤーにとって1番避けたいことです。(パネポンにはデスルーラはほぼ無いので)
しかも、内容としては2つともプレイヤー起因のものですから、パネポンが自分との戦いと言われるのも自然な結論です。
先程ブラックパックンの上をひたすら駆け抜けるステージの例を出しましたが、純粋なリスクはスターが切れれば間髪入れずにブラックパックンの判定が入るような状態です。
一寸前は光だったのに、一寸先は闇なのです。
その境界線がプレイヤーなのです。
プレイヤーは不確実性なのでズレやすく、ズレると光にも闇にも軽率に突っ込むことになります。
これは初級者でも上級者でも共通の法則であるため、純粋なリスクについては差がつかず、常にリスクが高いと言えます。
この式からこの記事は始まりましたが、リスクとリターンが純粋であっても高低の関係に変わりはないようです。
パネポンの魅力
上記の式の関係は正しそうだということが分かりました。
そうすると、結局パネポンは一般性は低いようです。
一般性が低いと簡単には満足が得られないと哲パネ2では言いました。
では満足感を得づらいのにもかかわらず、パネポンの何が人を惹きつけるのでしょうか?
哲パネ2では、パネポンの操作は歩行のようであると例えました。
歩行は延々と同じ動作を繰り返しますが、疲れたり面倒だと思うことはあっても、満足しないからと言って歩行自体に飽きるということはあまり無いはずです。
飽きない理由としては、周期的・慣性と減衰がある・集中と散漫ができるからだと思います。
歩行は同じ動作の繰り返しであると繰り返し言っていますが、これは周期的であると言えます。
歩行の他に周期的なものの例として、時計、円、波などが挙げられます。
これらは外部からの圧力が無ければ、基本的には一定のリズムで一定の動きを続けるはずであり、これは慣性が働いていると言えると思います。
そこから慣れや疲れという外力によって、歪みが生じてきます。
この歪みは決して悪い意味ではなく、元の形から見て融通の利く幅があると言えます。
バネを想像すると、隙間が空くから何かがそこに入れますし、縮むからバネとしての強度は一時的に上がります。
ですが、外力が無くなれば基本的には元に戻ることができるので、バネの機能自体が損なわれることはありません。
これが融通が利くということだと思います。
リズムの話に戻すと、リズムは『タン・タン・タン・タン…』とシンプルな拍も取れれば、『ン・タ・ン・タ・ン・タ・ン・タ…』といった拍を最初や途中からでも関係無しに取れることを知っていれば、融通が利かせることができます。
そうすると、「ちょっと速くしてみよう」とか「変化をつけてみよう」といった意思が生まれやすいです。
慣性の視点で考えると、これも外力と言えます。
続けていたリズムに「こうしよう」という意思を向けるのは、そこにグッと力を入れるので集中と言えます。
そして、実際に変えたリズムを続けていれば再び慣れたものになります。
慣れとは気付いたら力が入っているのが通常状態になっていて、結果的には意識を向けていない状態や無意識状態になり、これは散漫と言えます。
また、慣れたら変える、変えたら慣れる、慣れたら…というこれもリズムの内であり、循環していきます。
循環すれば、それは周期的と言えます。
分かりづらい表現をしてしまったのでまとめると、周期というルールにプレイヤーの意思と慣れというルールを重ねることができます。
これはスピログラフ(グルグル円を描いて幾何学模様を作る玩具)のようであり、大きい歯車状の穴がルール、意思が小さい歯車に開けられた穴の位置が意思、円運動が慣れです。
恒星、惑星、衛星の関係と言っても良いと思います。
幾何学模様は実質無限の模様を作れます。
我々の頭上に輝く宇宙もまた、無限にあるかのように感じさせてくれます。
そんな様々な顔を見せてくれるので飽きづらく、それでいながら自らの手で採択ができるのならば大きな快楽となり得るでしょう。
ルールは正、ルール外のルールは歪
ルールにルールを重ねる話をパネポンの視点にすると、周期的なものはゲームの仕様(例:ゲームスピード、お邪魔パネルの形など)、意思と慣れはプレイヤーにあたります。
ゲームの仕様という周期にリズム的なプレイヤーが合わせていくとも言えますが、恒星と惑星などの関係から見ればパネポンにプレイヤーが半強制的に合わせられると言ったほうが正確です。
プレイヤーがゲームの仕様に逆らうのはなかなか困難なので、ゲームに自然とプレイヤーが合う形になります。
とは言え、パネポンにプレイヤーが合わせられると言っても全てを合わせる必要は無く、案外融通が利きます。
スピログラフの例で言えば、小さい歯車に開けられた穴がとても多いような状態であり、共振する点が非常に多いと言えます。
つまり、穴の位置を変えても違う模様がまたできるのです。
先程は融通が利くことをポジティブに捉えていましたが、ネガティブに捉えれば「そんなことができるの!?」という感想を持ちやすく、実際はルールから外れていなくともルールから外れているように思えるため、「ルールって何だったっけ…?」という状況になってしまいます。
特にポイントが分かっていない初心者にとっては、何をして良いのか・何をしているのか分からないという状況に非常に陥りやすいです。
ルールが何であるかを正とすれば、ルール外のルールは歪です。
ここで言う正は1、歪みは1×nといったイメージです。
その業界において沿うか沿わぬかであり、正義的なものではありません。
パネポンにおいてはフレーム連鎖が良い例です。
パネルの着地フレームの猶予が長かろうが短かろうが、ゲーム側が着地したと見なせるフレーム内であれば連鎖の判定に入るのですが、通常の連鎖と比べると、結果的にパネルの下に地面が無いという異様なことが起こっているように見えます。
これをじょうたつへのみちで見せられるものですから、直前までの感覚や知識が崩壊しかねません。
上達するために見るとは言え、結構なスパルタです。
異様を良く捉えれば、スイカに塩をかければ甘くなるといったスパイス的な役割があります。
ですが、初心者からすればスイカに塩をかけたら甘みが強く感じられるということは直接的・直感的・基礎的ではなく、あまりに間接的・論理的・応用的なのです。
一般性は直接的か間接的か
今さら一般性の話をするのですが、初心者でもできるハードルの低いゲーム、つまり一般性が高いゲームとはポイントが直接的・直感的・基礎的であると言えそうです。
逆に、一般性が低いゲームとはポイントが間接的・論理的・応用的と言えます。
もう少し噛み砕いて言えば、一般性はシンプルとシンプルが噛み合いやすいと高くなり、逆に噛み合いにくいと低くなります。
スイカの例で言えば、甘くしたいのなら砂糖をかければ良いじゃない、といった具合が直接的です。
これに対してパネポンは、スイカに塩をかけるだけでなく、適温や適切な切り方までしなければ甘味が強くならない、つまり直接的に噛み合っていないように感じられるため一般性が低いのです。
パネポンは高級料亭
パネポンはスイカに対して多くの手を加えていることになりますが、1品に対して多くの手を加えるとなると高級料亭がやってることと同じです。
高級料亭と言えば、最近は少ないかも知れませんが『一見さんお断り』というところもあります。
初見の人は誰かに介して貰えなければ、そのお店に入ることができません。
直接的にそのお店に入ることができない、間接的にしか入れない、言ってしまえば面倒臭いのです。
面倒臭いの対価が、良いサービスや美味しいものなのです。
パネポンと高級料亭が同じならば、何かに介して貰えなければ参入が難しいと言えます。
なので、いくら高級料亭側が「おいでおいで」と言っても、お客からすれば「いや値段が高いし、何よりおいでと言ってるのに初見じゃ入れないじゃん、無理だよ」となってしまうのです。
本来ならば、何かに関してはチュートリアルがその役割を担うはずなのですが、チュートリアルは結構難しいことをやっていると思います。
また、先程の通りじょうたつへのみちは異様なことも含まれています。
異様は華やかではあるのですが、華やかさはシンプルな構成なのに、相性の良さで構成感が増幅されるものだと思います。
「相性の良さって何だ?」となりますが、共通点があるだけです。
1=1であれば「これは1が等しい関係にあるから、これは同じものだね」とすぐに分かりますが、もし1=-1と言われた場合には「何で?」となってしまいます。
表記は間違ってはいますが、これは0という共通点を介せば1も-1も同じものであると言えます。(絶対値)
少し形や役割は違うけれど、共通点があれば同じものと見なせるのです。
音楽理論で言えば代理コードというやつです。
構成感の増幅はスイカに塩をかけるのと同じで、甘味に少しの鹹味を足せば甘味が強くなるイメージです。
1(スイカ)=1(砂糖)の間の距離で言えば0ですが、同じとみなせる1(スイカ)=-1(塩)で言えば2あると言え、これは構成感の増幅と言えると思います。
とは言え、これは複雑感の増幅でもあります。
そうすると、チュートリアルもじょうたつへのみちも初心者向けとは言えず、本当にチュートリアルモードと言えるのはパズルモード以外に無いのです。
ところが、パネポンをやる人はぷよぷよができずに参入してくる人が多いです。(当社調べ)
ぷよぷよは王道パズルゲームとして浸透しており、まごうことなき正真正銘のパズルゲームです。
つまり、「パズルは無理!!!」な人がパネポンに来ます。
果たしてそういう人たちがパズルモードをやるのかと言えば、恐らくやりません。
言ってしまえば、面倒臭いをすっ飛ばして良いサービスや美味しいものを食べようとしているのです。
界隈内の一部では『パネポンヤクザ』という言葉が囁かれているようですが、面倒臭いをすっ飛ばして良いものを受けようとするのは言わばカチコミなので、実はあながち間違っていないようです。(小声)
理想を叶えるためには
面倒臭いをすっ飛ばして良いものを受けようとするのは、ある意味で理想です。
でも、理想を叶えに来たのに、結局パネポンで面倒臭いことばかりしています。
ここから言えるのは、面倒臭いことはすっ飛ばせないが、面倒臭いことの形を変えたら理想が叶った、ということです。
相性の良さという話の中で、少し形や役割は違うけれど、共通点があれば同じものと見なせるのであり、これは代理コードにあたると言いました。
音楽理論を抜き取ってしまえば、これはただの代理です。
そして、哲パネ2にてパネポンはアクションパズル格闘音ボードゲームです、とも言いました。
もしパネポンがアクションパズル格闘音ボードゲームであるならば、パネポンにはこれらの要素が詰まっていることを意味します。
なので、少なくともアクション・パズル・格闘・音・ボードゲームに関しては、パネポンと相性が良いと言えます。
それぞれ要素を取って見れば、きっとそれぞれに面倒臭いと思うようなことがあると思います。
しかし、エンジョイ勢的にでも、本当に何となくやっていることの中にでも、面倒臭いと思わずにやれていることがあるのではないでしょうか。
面倒臭いと思わずにやれていることを理想と言うならば、理想で面倒臭いを代理すれば理想が叶えられるのではないでしょうか。
理想の再現性
とは言え、理想にもまた高低があります。
念のため言っておきますと、少なくとも今回は個人が感じる主観的な質の話ではありません。
面倒臭いと思わずにやれていることを理想だと言いましたが、あまり理想っぽく聞こえないかも知れません。
それは、既に叶えられているものを理想と呼ぶことがあまりないからだと思います。
ただ、もし呼んでも良いのならば、面倒臭くないのは理想の位置が高いと言えます。
逆に、面倒臭いのは理想の位置が低いと言えます。
『理想で面倒臭いを代理すれば理想が叶えられる』を言い直すと『高い理想で低い理想を代理すれば高い理想が叶えられる』となります。
そうするためには、高い理想を10、低い理想を1とした場合、10は1を代理できるようにしておかなければなりません。
どういうことかと言えば、10を9+1や5+1+1+1+1などに解釈し、10が1と似た機能を持っていることを認識しなければいけない、ということです。
代理は簡単に言えば本人を再現したものであり、数学っぽく表記すれば本人´といった感じです。
10を9+1と解釈していれば、10は1の再現性を有していると言えますし、1は10に再現性を担って貰えているとも言えます。
これは10と1に1という共通点があるためですが、共通点があると言うためには10を別の形にも分解しておかなければならないのです。
パネポンがアクションパズル格闘音ボードゲームであると言えたのは、アクション・パズル・格闘・音・ボードゲームを分解したからです。
余談:都合の良い理想
高い理想で低い理想を代理すれば高い理想が叶えられることは、センスの正体であったりもします。
センスは、他にたくさん情報があるはずなのに、その人から出されたものはただ1つのように見えるものです。
これは手間暇かけられた1品料理と同じです。
高級なものに見えるからセンスの良い人に憧れやすいのです。
某漫画に「ヤツらはラーメンを食ってるんじゃない。情報を食ってるんだ!」というセリフがあります。
これは、客が食べたラーメンからは何も得ず、「鮎の煮干しを使っている」という情報を鵜呑みにし、他の濃い味でかき消されてしまった味を存在していると錯覚してありたががっている、という流れから出たセリフです。
言ってしまえば、実感を信じず思い込みを信じてしまったのです。
ただ、ラーメン1杯に含まれている情報はあまりに多く、「ラーメン1杯に含まれている情報はラーメン1杯分だぜ!」と言いたいのですが、本当は「ラーメン1杯に含まれている情報はラーメン5杯分だぜ!」と言えるぐらい情報があるのです。
それを実感しようとしたときには、たとえ思い込みであっても持っている情報に頼らざるを得ません。
そして情報とは、情報化された時点で1つにしかならないのです。
「ラーメン1杯に含まれている情報はラーメン5杯分だぜ!」と矛盾しているように聞こえますが、ラーメンを5という数字1つとするなら、ラーメンに含まれている情報は1つがたくさんある1+1+1+1+1といったイメージです。
簡単に対比するならば、ラーメンはセンス(料理)であり、ラーメンに含まれている情報はエッセンス(材料)です。
1+1+1+1+1と言うのは人間にとっては面倒なことで、数字1つで5と言ってしまった方が楽で都合の良い理想と言えます。
ですが、1+1+1+1+1と5を繋ぐためには「1+1+1+1+1と5は同じと言って良いですよ」という共通点が必要です。
つまり、ラーメンとラーメンに含まれている情報を繋ぐには何かが必要なのです。
それが「鮎の煮干しを使っている」という情報であり、これは『都合の良い理想にするための情報』に過ぎないのです。
ラーメンは都合の良い理想と言えますが、都合良く捉えるためには結局情報が必要なのです。
なので「ヤツらはラーメンを食ってるんじゃない。情報を食ってるんだ!」はその通りですが、そうでなければ目の前にあるものがラーメンではなくなってしまうのです。
それでは元も子もありません。
ラーメンを食うためには情報を食わねばならないのです。
今この記事でしていることは、パネポンを食うために情報を食っているようなものです。
なので、もしパネポンを食っている感覚があるなら堂々と言って良いのです。
「オレらはパネポンを食ってるんじゃない。情報を食ってるんだ!」と。
スペシャリストは足がかり・オールラウンダーは手がかり
話を戻しますと、再現ができるからと言って代理はあくまで代理であって、本人ではありません。
経験上で言えば、パネポンが上手くてもぷよぷよの上手さにはほとんどなりません。
この理由としては、ぷよぷよはパズル特化ですが、パネポンはパズル特化ではないからです。
パネポンはアクションパズル格闘音ボードゲームという、悪く聞こえるかも知れませんが寄せ集めのゲームです。
数字的なイメージで言うならば、ぷよぷよが5、パネポンは1+1+1+1+1です。
これはポケモンの努力値が想像しやすいかと思います。
同じ値の努力値を振ったとしても、振るところを1か所にするか5か所にするかで性能が全く違ってくるはずです。
スペシャリストかオールラウンダーかになると思います。
ぷよぷよはスペシャリストで、パネポンはオールラウンダーです。
スペシャリストはコントラスト、オールラウンダーはグラデーションのイメージになります。
このイメージで言えば、スペシャリストの代理はスペシャリストにしかできません。
ではオールラウンダーの代理はどうかと言えば、極論を言えば誰にもできません。
なぜかと言えば低い理想は弱個性であり、それだけに境界線が曖昧なのです。
簡単に言えば、グラデーションは再現性がかなり低いのです。
なので、オールラウンダーの代理はオールラウンダーにもできないのです。
「じゃぁ何でぷよらーはパネポンできるの?」と言えば、パネポンは境界線が薄いですが、境界線があると見なす、つまりコントラストがついていると見なして一部の代理ができるからです。
スポイトツールで画像から色を取得し、「なるほどこの色を使えば良いのね」と判断しているイメージです。
ぷよぷよはパネポンに含まれているアクションとパズルの代理はできると思います。
なので、パネポンをそれなりに上手くプレイするという目標があれば、比較的簡単に到達しやすいのです。
ですが、残りの格闘音ボードゲームの代理はできないので、オールラウンダーとして代理ができる訳ではありません。
つまり、ぷよぷよで培った以外の要素に移行するのは難しいのです。
おおよその役目は果たせても、オールラウンダーたるグラデーションの役目を全うすることはできないのです。
逆に、「何でパネラーはぷよぷよができないの?」と言えば、ぷよぷよは境界線が強いので何色か分かりやすく、色を当てはめることはできるのですが、似た色しか当てはめられないからです。
色を当てはめようとしたときには、グラデーションから選ぶにはどうしてもズレが生じやすいのです。
イラストから色を取得する際に、スポイトツールを使わずにカラーサークルから選ぼうとしているイメージです。
そのズレによって、再現しようと思うところからどんどんと離れていきます。
角度が1度違うと距離が長くなるほど結果が大きく違ってくるのと同じです。
なので、ぷよぷよをやろうとしても、気付いたらぷよぷよにならなくなっています。
ズレてはいけないように見える代理が苦手であり、特に継続的な代理は気付いたら別物になっていたりします。
パネラーがぷよぷよをできるようになるためには、ぷよぷよがズレても良いものだと判断できるようになるしか道がないようです。
ネガティブ面を見ていましたが、ポジティブな面も勿論あります。
それは、ズレるが故にコントラスト側から見ると思いもよらぬ発見を多くします。
言うなれば裏技や知恵、ちょっと悪い言い方をすればズルです。
ズレることによってズルができるのです。
ズルは異様で華やかで目を引き、個性とも言えます。
パネポンで言えば、本来は同時消し連鎖になるところを良いところでパネル入れ替えをし、タイミングをずらして連鎖数を増やすずらし連鎖です。
連鎖数を増やしたいけど増やすのが難しそうという問題があったとき、ズレることによって解決ができるのです。
パネポンはそういったズルがたくさんあるのだと思います。
そして、それが人を惹きつけるのです。
以上をまとめると…
となります。
悪く聞こえるところもあるかも知れませんが、あくまで区別をしており他意はありません。
おわりに
気付けばゲーム性だの一般性だのという話はどっかにいってしまいましたが、パネポンのゲーム性と一般性についてはある程度は深掘りできたのではないかと思います。
そして、自論として「全ての道はパネポンに通じ、パネポンは全ての道に通ず」というものがあります。
この記事は、どんな道もパネポンを通して異様化し、また道という個性に戻すことができたのではないでしょうか。
また大変長い文章(約15000文字)を書いてしまいましたが、ここまで読んでくださった方がいれば、ありがとうございました&お疲れ様でした。
パネポンに限らず、何かの手がかりになったなら嬉しく思います。