こゝろ〜令和版〜
朝なのに暗い。アパートのカーテンを開けるがそれでも暗い。どのくらい暗いかってクラリネットの黒ぐらい暗い。
おやじギャグは倉の中にでも置いておいて、そう、その日は雨が降っていたのだ。朝だから人が活動する様子がないので、雨たちは我がもの顔で自由気ままに踊るように降っていた。
もう冬なのか。冷たく澄んだ空気が鼻からすうっと入ってきて、のどから体の隅々まで行き渡る。
5:00。大学生にとっては真夜中だ。朝が早すぎて眠気が全く覚めない。今すぐにでもベッドに戻りたい。戻れる。余裕でダイブできる。今なら永遠に寝てられると思う。でもダメだ。今日は約束があるのだ。
私が海へこんな朝早くからでかいナップザックを背負って出かけていった所以はは次の通りである。
まず前提として、私は将来を映画監督と夢に描いている。脚本を書き上げた私だったが、どうにも恥ずかしく、仲間を見つけることはできなかった。だからこうして、誰にも気づかれない早朝の海へ、セリフが書かれた紙の束と無駄に高いカメラを持って向かっている次第である。
電車に揺られ30分。早めの通学出勤を行う若人就業者諸君、お疲れ様でございます。頭があがりません。さて、私はというと海へ向かうので、ここで降ります。さようなら。お身体に気をつけて、お元気で。
さあ参りましょう。始めての撮影です。雨もあがって日も昇った。最高のコンディション。けれどあれやこれやあたふたして機材を砂浜に広げようとしたけれど、あらら水も砂も機械の天敵。どうしようかと思案していると、人がのこのこ歩いているのが遠くに見えた。これは困った人がいると撮れない。今日は諦めて明日来よう。折角早起きしたのに悲しい。とぼとぼ砂浜に足跡をつけて駅に戻った。
歩き始めて数十秒、先程見えた人影が、こちらに近づいてきた。いや、海に向かって歩いてきたのだ。男性で、ご老体の方らしかった。私はその人を見るのに始めて顔を上にあげた。虹がかかっていた。おおっ。と、つい声が出た。そしたらその人も、おおっと言った。気づいたらその人は私の目の前に立っていた。
「綺麗で大きいですね。」
「はい。綺麗で大きいです。」
「ゆうべは雨が降ってましたからね。」
「ゆうべは雨が降ったらしいですね。」
「晴れて良かったですね。」
「晴れて良かったです。」
これが私と先生との出会いだった。別になんの特別もない。運命もない。単なる思いがけない偶然が、この物語を作ったのだ。
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