お小遣いをもらうのは期限があった-すずころ日和 祖父母-
こんにちは、皐月です。
以前、こちらの青砥さんの記事を拝見して思い出したことを。
母方の祖父母との思い出。
祖母は気難しく、小さい頃はとてもおっかなかった。遊びに行っても笑顔をみたことがなく、「ようきたな」と言うと台所に引っ込んでいく。
祖父は反対にとても優しかった。いつも笑顔で迎えてくれて、甘いものが大好き。
小学生の時、従兄弟同士でお泊まりをした時も食事と布団は用意してくれるが、相手をしてくれるのは祖父。配膳も祖父がやってくれて、なんというか孫とは最低限しか関わろうとはしなかった祖母。
訪ねていくときは、手土産に祖父母が自分で買わないケーキやプリンなどの洋菓子を持っていく。それをいつも喜んで、食べながらいろいろな話をしてくれた祖父。
祖母はお盆にいつもオロナミンCとお茶を乗せて途中で現れて、無言でそこに混ざる。「うまいな」とボソッと呟き、食べ終わるとさっといなくなる祖母。
祖父と話して大体30分もすると「暗くなったら行かんけん、早く帰らんといかんぞな」と言いにくる。嫌われているのかな、と思っていたときもあった。
流石に大学生くらいになると私も慣れっこで「はーい」と素直に腰を上げる。
そんな祖母を嫌いにならなかったのは、現金な話だがよくお小遣いはくれたのだ。
白く赤いリボンが印刷されたお祝い用の封筒。
これに必ずピン札、リボンの下には「〇〇」と祖父母の苗字を筆ペンで入れる。
いつも行くとしばらくすると、押し入れの下にゴソゴソと入っていき「封筒、お金、筆ペン」のセットを取り出す。それを気づかないふりをして、決して見ない。
祖母はゆっくりと用意していた。
そして、必ず祖父のいない、リビングのとなりの和室に座って渡してくれた。
なんと言ってくれていたのかは正直思い出せない。
「無駄遣いしられん」「じいさんには内緒やけん」
そんな内容だっただろうか。
お小遣いはもちろん嬉しかった。だけれど。
無愛想な祖母が「いつ私たちが来てもいいように、用意してくれている」
これが嬉しかった。
当時はいつもきれいなお祝いの封筒に名前まで入れているのが不思議だったけれど、祖母のことを嫌いじゃなかったのは、ここにもあると今ならわかる。
大事にされている。大事に思ってくれている。
お小遣いに込められた、封筒に込められてたメッセージ。
きっと祖母はそこまで考えてはいなかっただろう。お金は包むもの=きれいな封筒に入れる、ただそういう図式が出来上がっていただけかもしれない。
ただ、小学生が目上の人から毎回祝いの封筒でピン札でお金を両手で渡される。
それを両手で受け取るわたし。言葉にないものを形で一緒に受け取っていた。
それなりに大事に思ってくれていたのだと、言えないわけはないでしょうw
毎回必ず、お土産にオロナミンCとゴールドブレンドと砂糖と羊羹。重いものばかりを玄関に用意してくれていたね。
ねえ、ばあちゃん。
不器用だった祖母。
大人になるにつれて、笑顔でしかもたくさん話してくれるようになったので私はちょっとびっくりしていたよ。
母いわく「あの人はね、子どもが嫌いだから。どう接したらいいかが、わからなかったのよ」と言われて、納得した。大人になった孫は話しやすいということらしい。
祖父は反対に、こっそりと折りたたんでさっとお札をそのまま渡してくれた。
「ばあさんにみつからないうちにバッグにいれなさい」と。
ウンウン、とうなずいてありがたく頂く。
好奇心旺盛で、よく外を歩き、花が大好きで写真やパソコンで大学生の孫たちとメールを楽しみ、さらに映画に音楽とハイカラな大正生まれの祖父。
反対にご先祖様第一でお寺への寄付を欠かさず、気難しく、病院と人づきあいが大嫌いでなんでも「やいと」(お灸)で治すという昭和生まれの祖母。
とても対照的な夫婦だった。
今も引き出しには祖母がくれた封筒が、わたしのお小遣い入れとして現役だ。
もう、今回で最後かもな…。
そんな思いで受け取るようになったのはいつからだったか。
そしてそれは数年前に現実になった。祖父も祖母ももういない。
大事にとっていた一つの封筒。これはもう、生涯捨てることはないだろう。
孫として、大事にしてくれてありがとう。
いつの間にか。
お金は包む、きれいなお金で。それも「気持ち」を伝える手段なのだと、教えてもらっていたんだね。
言葉ではなく、形。今も「お包み」が現代にある意味を改めて知ったよ。
不器用で無表情なばあちゃん。でも最後はよく笑ってくれたね。
私の子どもたちにも、いつも「マリー」を用意してくれてありがとう。
このお菓子は今も子どもは大好きだよ。
じゃあ、ばあちゃんまたね。
じいちゃんと仲良くね。
皐月