中江兆民という異端児

なんでこうも魅力的な人間がいるのか、と思わせる人物がいるものである。激動の明治期は、本当にそんな人達が躍進した。僕のアンテナにガンガン引っかかる一人は、なんと言っても中江兆民。

和魂洋才、西欧の知の積極進取が至上命題であった明治期。その中で、西周とともに、驚異的な儒学の知識と西欧哲学の旺盛な輸入の間で、かくも引き裂かれながら、それらを統一する「理」を追い求めた、ある種のロマン主義者。

酔っては性器をさらし、陰嚢に酒を入れて人に飲ませようとする阿呆。ほうれ見てごらん、の露出癖で有名なルソーの紹介者であり、下半身ネタでも文字通り「東洋のルソー」であった中江兆民。

一縷な騒ぎ、としての縷騒(ルソー)

一途に万物の統一的な「理」を求め、朱子学、宋学の文献学的な解釈から遠く離れて、信じ、頼り、愛すべきものとしての「理」を追い求めた兆民。

日本における稀有なイデアリスト。

その「理」は兆民の信条に過ぎなかったであろう。哲学などは科学ではなく、単なる信条に過ぎない
という批判もあるだろう。まあ浅はかだとは思うが、そこに乗ったとして、プラトンのイデア説も同じ信条に過ぎない。そして信条の持つパワーを比較すれば、兆民の「理」は、プラトンのイデア説と比べると見劣りしてしまうのは確か。実際、プラトンほどのオリジナリティはないし、影響力もない。比べるのが可哀想なくらいの惨めさであり、そんなことは当人が百も承知である。しかしながら、プラトンのイデアに触発され、ルソーの自由と道徳に触発され、珍妙かもしれないが、兆民は新たな「理」を作った、と言ってよい。日本人として、哲学のファンとして、兆民のその新しさについて語りたいと思う。今度の本はそんな感じにしたいなあ。


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