惜福
私は将棋はしませんが、図書館で借りて読んだのが「いまだ成らず 羽生善治の譜」(鈴木忠平)でした。
羽生永世七冠の姿を対局者からの視点で描いていくものです。冒頭に米長永世棋聖から名人位を奪った場面から始まりますが、その中にこんなところが
「棋士は愛好家にたのまれて色紙に揮毫することがある。知的好奇心の旺盛な米長はいくつもの言葉の中から相手によって選んで書していた。ところが、名人になった頃からどの色紙にも「惜福」としか書かなくなった。幸田露伴の『努力論』の中にあるその言葉は、与えられた福を取り尽くしてしまわないように生きる、そういう意味であった。あらゆるものを手に入れようとしてきた米長のイメージとはどこか違っていた。」
「惜福」という言葉は知らなかったので、幸田露伴を青空文庫で読んでみました。
この中の「惜福の説(幸福三説第一)」の所に詳しくありましたが、その一部。
「福を使ひ盡し取り盡すといふことは忌む可きであつて、惜福の工夫は國家に取つても大切である。
何故に惜福者はまた福に遇ひ、不惜福者は漸くにして福に遇はざるに至るで有らうか。」
どうやら福の入っている袋があるとして、それを使いつくしてしまうと、次の勝負の場では袋の福が空っぽになっている。だから使い尽くさず、袋に少し残しておくことが、袋の中で福が増えていくことになる。ということでしょうか。
もっといえば、捲土重来、ここが勝負というときでも福を使い切らない、勝負の後のことまで考えているかどうか、つまり全ての勝負はそこで終わりではなく、連続しているということを幸田露伴も米長永世棋聖も確信しているのだと思います。だから米長永世棋聖はA級以上在籍26期連続という大記録を持っておられるのだと納得しました。
勝負事、人生、仕事も全手ここが勝負という時が必ずありますが、それを乗り越えてもさらに先に勝負の場が続くことを忘れてはなりません。そこですべてを使い果たしたら、次は闘えないのです。
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