#291 読書日記42 無念無想の境地 人は人、自分は自分
高校生の時に読んだ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』第1巻の「淫蕩」の章に出てくる一節をふと思い出し、細かい表現を思い出そうと古い文庫本を引っ張り出した。
■悟り
深山で、ある木こりが斧をふるって大木を伐っていたとき、いつのまに来たのか、サトリという異獣が背後でそれを見ている。
「何者ぞ」ときくと
「サトリというけものに候」という。
あまりの珍しさにキコリはふと生捕ってやろうと思ったとき、サトリは赤い口をあけて笑い、
「そのほう、いまわしを生捕ろうと思ったであろう」と言いあてた。
キコリはおどろき、このけもの容易に生捕れぬ、斧でうち殺してやろうと心中たくらむと、すかさずサトリは、
「そのほう、斧でわしをうち殺そうと思うたであろう」
といった。
キコリは、ばかばかしくなり、
思うことをこうも言いあてられては論もない。
相手にならずに木を伐っていようと斧をとりなおすと、
「そのほう、いま、もはや致し方なし、木を伐っていようと思うたであろう」
とあざわらったが、キコリはもはや相手にならずどんどん木を伐っていた。
そのうち、はずみで斧の頭が柄から抜け、斧は無心に飛んで、異獣の頭にあたった。
頭は無残にくだけ、異獣は二言と発せずに死んだという。
■無念無想
無想は剣術の極意とされている。
武道に無念無想や心頭滅却、無我の境地といった言葉がある。
仏教が出典になっているようだが、特殊な世界の話ではなく、私たちは日常の中であらゆる雑念や欲にとらわれている。
一切の考えを捨てて無心になるのは難しい。
私なんぞ雑念と煩悩のかたまりのような人間だ。
この世に自分一人しかいないのなら、そういう状況にはならないのかもしれない。
自分以外の他人がいるから、自分のほうが上であるとか下であるとか、強いとか弱いとか、優れているとか劣っているとか、勝ったとか負けたとかを気にするわけだ。
他人を意識しない生き方をしたいとは思う。
他人は他人、自分は自分という境地になれないから苦しむのだ。
学生との面談でいろいろな話をしていると、やはり周囲の友達がひとつの基準になっている。
自分軸ではなく他人軸の思考だ。
社会に出れば「オレがオレが」ではなく、利他の精神も重要だが、私たちはその配分や使い分けで苦労しているともいえる。
そこらじゅうに比較と競争の原理が働いている。
できれば平等・公平であってほしいという心のセーフティーネットがほしいのかもしれない。
オトナ(親や教師、指導者等)の思惑に支配され翻弄されるのは時代の常なのか。
■こころざしを持つ
けーわん少年は、他人との比較ではなく、竜馬のように自分の生き方、あり方を「志」として持つことが大切なのだと思ったのだ。
それができれば自分も坂本竜馬になれる!と。
「志」と言う言葉には、相手に物や気持ちを贈る(おこころざし)と、心の向きを示す意味がある。
50年が経過しても私は坂本龍馬のようにはなれていない。
それでも、こころざしが足りなかったとは思っていない。
志とは、自分の心の向きを指し示すものだ。
志が叶わないことだってある。
叶わなかったら終わりというわけではない。
心の向きを指しなおせばいい。
先が読めない時代であっても、若者たちには志を持ってほしいと願っている。
日々の生活の小さな目標ではなく、もっと先にある人生の大きな指針として、「ありたい自分、なりたい自分」を思い描くことだ。
その思いを心に掛けること=心がけ=心の向きを。
若者よ、日本の夜明けは近いぜよ!