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#404  僕はパン粉要員

 教育界のバガボンド(Vagabond:放浪者)のチンパンジー教師です。

 私のことをふざけたことばかり書いている変な教師だと思っている読者は思いのほか多い。でも、私はこう見えて、かなり真摯に仕事と向き合い、毎日全身全霊でいろんなことを論理的・哲学的に妄想している。

 先日、所属する心理学会から電子メールが届いた。
「先月ご依頼申し上げた原稿の提出期限が過ぎておりますが、まだお送りいただけないでしょうか?」

そこで私は返信した。
「執筆のための構想を練る期限と勘違いしておりました。ついては、1週間ほどお時間を頂戴し、禅寺に籠って反省したうえで執筆に取りかかりますので何卒ご容赦ください。」と、丁寧に謙虚に返信しているのだから、誰からも後ろ指を指されることはない。

 私に後ろ指を指すのは私の講義を履修している200人くらいの学生だろう。

「チンパンジー先生、今日こそ誤字脱字を笑って誤魔化したり支離滅裂でワケの分からない小難しい話をせず、先生の経験と見識に基づいた格調の高い講義をお願いします」とお願いされるほどだ。

私は学生に真実を話す。

「それはね、私が情熱を注いで授業をやっているから、つい力が入って間違った漢字を書いたりするんだよ。私の多動で情熱に満ち溢れた授業のことはさておき、君たちが集中力をもって授業に臨んでいるのは実に素晴らしいことだ。今後も鍛錬に励みたまえ。ちなみに、カネ偏が2つ続く「鍛錬」と言う漢字の成り立ちは、鍛冶屋の仕事で鋼を繰り返し叩いて、より強い鋼にするという意味だ。刀鍛冶職人や武士のように鍛錬に励むということだ。」

 これぞ剣術の極意「言い訳つばめ返し」だ。武士は鍛錬を怠らず、教師は言い訳を怠らないのである。

 大学は小学生に教えるのとはワケが違う。漢字の筆順やトメ、ハネの細部にこだわるとか、ミミズが這ったような字を書かないとか、そうしたことに気を遣って何もかも完璧にしようと考える必要はない。手取り足取りでは学問研究にならないのだ。 
 専門領域の半分くらいはベールに包まれているものだ。残り半分は学生自身が主体的に思考し探究しなければ成長は望めない。逆に私は、学生から見て「あまりにも遠い存在だ」と思われないよう、あえて「不完全体」であるかの如く振る舞っているだけだ。半分はヒトで半分はチンパンジーというのはそういうことだ。

これを、私の流派では「言い訳斬り」と呼ぶ。
どうだ、Vagabond宮本武蔵みたいだと思わないか?

 さて、いつも真面目な私だが、もっと真面目な話をしよう。

 教育者は、教育を学習指導論とか生徒指導論で考えたり、ミッション系・宗教系の学校のように道徳観・倫理観の文脈で課題を捉える傾向が強い。
 最近は「プロアクティブ(先取り)教育」として、心理学的・予防的な取り組みの重要性が説かれている。課内活動(教育課程に基づくもの)はもとより課外活動を通じて次のことを目指している。

(1)自分の感情に気付いて表現(言語化)できること

(2)状況に応じて適切に考え現実的な問題解決ができること

(3)他者や社会と建設的で良好な関係を築けること

(4)人生の目的や意義を見出し、主体的に人生を選択すること

 現実には、私たち大人でさえ、いろいろなことで思い悩んでいる。

 私たちは、動物的なリビドー(性衝動)や自我をはじめとして、イド(自分の心の中にある自覚できない自分)、そして成長過程で他人や社会から授けられた規範(道徳、倫理、理想、良心、禁止など)によって形成される超自我(欲求や衝動を制御する心)の狭間で揺れ動きながら不安や葛藤と戦っているのだ。
 何を書いているかよくわかんないけど。

講義録より
パン粉要員として

 親や教師から「〜しちゃダメ」といった躾を厳しくされて育つと「〜してはいけない」という考えになり強い超自我が形成され、そこで苦しむ若者は多い。

 他者との関係性は、こころの健康にさまざまな影響を及ぼす。本来であれば「自我」は対人関係の中で揉まれ、それは満足感や安心感に支えられて発達するものである。

 適切な環境の中で健康なパーソナリティーが形成されれば、現実的なものの見方や考え方ができるのだが、育ちの環境や何かの拍子に糸が絡まったり切れたりしてしまうことがある。

 修復のために絡んだ糸をほどいたり、結び直すためには他者の力を借りながら自尊感情や他者への共感力を再構築する必要がある。

 教師が目を向ける対象は、不登校やひきこり、集団内での孤立(ぼっち)だけでなく、ごくありふれた日常の中にも関係性の誤作動が起こっていることを忘れてはならないだろう。私自身、幼年期から少年期前半まで“誤作動当事者”だった。

 立場が変わり、支援者としてどう介入するかで何度も壁にぶつかってきた私である。限界を感じる場面もあった。そこでは、つなげる先や人を確保することの重要性を学んだ。
 つまり、つなぎとしての「パン粉」だ。私自身、今もパン粉要員だ。

 私は不完全な人間である。大学生である若い君たちが不完全なのは当たり前。失敗しても立ち上がって共に成長しようじゃないか。