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#401 ジェンダー・ニュートラルと異装

1,400字

 ジェンダーをトランス(越境)した異装は、演劇、芸能の世界ではさして驚かないのに、日常では本来の性別がわかった途端に奇異の目で見られることがままある。

 ファンションにおけるジェンダーフリーは昔からあったが、私たちの中に平均的な男性像と女性像というものが確定されているが故に起こる誹謗中傷や差別がある。
 想定される平均像から逸脱している服装や所作は、ことごとく「変なもの」とみなされがちだ。男性はスカートを履くと女装とみなされるが、女性はパンツにTシャツでも男装とはみなされない。

 ジェンダーはファッションの流行と共にボーダレス化した。ヘアースタイルやヘアーカラーはもはやジェンダーの象徴ではないが、やはり、ふと目にとまることはある。ジェンダーを片寄って見る習性は親や社会の影響を受けて子ども時代に築かれる。大人になるに従って異装を「変」とみなすとき、そこに悪意や差別、排除が伴うことが往々にしてある。

 歴史的には、割礼、去勢、入れ墨、化粧といった身体加工や装飾は男女の性差を強調したものだった。その大半は男性社会が意図的につくりあげたもので、それは宗教や民族であったり、思想、忠誠、覚悟の象徴でもあった。

 フランスを救った伝説の少女、ジャンヌ・ダルクは、イングランドの捕虜として捉えられ、異端審問にかけられ「軍服着用(男装)」したことが罪とされた。彼女は悔い改めたことによって処刑を免れたが、再び男装したことによって火あぶりの刑に処された。15世紀の話だ。


 現代に目を向けたとき、1960年代以降のカウンターカルチャー、サブカルチャーはファッションだけでなく生き方そのものに影響を与え、社会的マジョリティの枠組みから逸脱してこそ意味があるといった考えを持つ人が表舞台に登場した。
 その延長線上では、エスニック・マイノリティ(少数民族)やLGBTQ+などを受容し差別を解消する法律が施行され今日に至っている。

 私の授業に長髪ポニーテールにスカート姿の男子学生がいる。毎回同じ出で立ちだ。見ようによっては袴を履いた武士、剣心(るろうに剣心の主人公)のようでもある。
 彼にスカートの構造を見せてもらったら、スカートというよりはスコットランドの男性が腰に巻くキルトのようなつくりだった。中側には普通のパンツを履いているので防寒対策にもなっている。

 今は「オネエ」という言葉すらジェンダー差別につながるということで封印されつつあるが、高音で柔らかい話し方をする彼は、別に過剰に女性を装っているふうでもない。非常に穏やかで知的な話し方をする。

 彼は文学や漫画・アニメ、映画に造詣が深く、私がよく観るマーベルの映画なんかにも話を合わせてくれる。授業での発言や小論文では異才を放っていた。居場所のなかった全日制高校から通信制に転学し、そこで自分らしさを発見したという。

 私は彼に、なぜそんな格好をしているのか尋ねたことはない。
「その素材は?」「どんな構造になっているの?」「今日の柄はオシャレだね」などと話しかけていた。

 そんなことより、私は彼との対話の中から彼の哲学を見出すことの方に興味がある。彼は自身の生き方、あり方を自己表出することによって、さまざまな気付きを得て成長してきているのだから、大学でも新たな発見をしてほしいと願っている。

Green Day – Minority
俺はマイノリティでいたい
奴らの権力にはなびかない
多数派のモラルなんかぶっ潰せ
俺はマイノリティでいたいから