#214 マイノリティ わかり合えなさの壁を超えるために
#209で取り上げた「ニューロマイノリティを内側から理解する」の記事を読んで、わざわざメールをくださった方がいた。
私と同じように教育公務員を終えた後、大学に勤務し特別支援教育の分野の研究をされているE先生だ。
Facebookで知り合い、もうかれこれ10年近くのお付き合いになる。
noteをこっそり読んでくださっていたそうだ。
特別支援教育の困難さと現状について、西日本のある県の状況を教えていただいた。
件の「ニューロマイノリティ」に関しては、地域性に影響を受けることが多々あるという。
「多数」と「少数」であることは構わないが、そこから「強者」と「弱者」に序列化されることに我慢がならないと感じているE先生。
同和問題も絡めて対応されることが結構あるという。
私自身は、マイノリティを「弱者」と規定することには違和感を持っている。
それは「数の違いでしかない」と、論文や講演会などの場面で述べてきたが、だからといって定型発達の人々と同じ扱いをしていいとは1ミリも思っていない。
障害種にもよるが、障害の当事者のすべてが、自己の状況を正確に説明できるわけではない。
だから誰かが代弁者(翻訳者)とならなければいけない。
学校にもデイケアにも個別の発達支援メニューがある。
私もお手伝いできる時にできる範囲で支援している。
発達に課題がある子の保護者の方々のコミュニティに顔を出すことがある。
日常の中のリアルな話を聞くと、知らないことが次々と露わになっていく。
親は障害がある子の最も身近な支援者であり代弁者である。
親の困りとして多く耳にするのは、周囲の非協力的な態度に触れていくうちに、「私たち(親と子)は社会から排除されているのではないか」という恐怖と怒りが入り交じった感覚になり、それは結局、当事者家族でなければ分からないという話をされたことがある。
「でも、先生はおわかりになるでしょ?」
と迫られることが何度もあった。
どこまで理解できるかはわからないが、理解するよう努めてはいる。
社会との接続や結び直しをどうすればよいのか、研究会や保護者会で知恵を出し合ったりもする。
私ひとりでは大したことはできないが、繋ぎ役や橋渡し役をしたり、子どもたちと直接交流しながら、「何かが変わるはずだ」という思いで取り組んでいる。
ほんの小さな「何か」かもしれないが、小さな思いや取り組みがたくさん集まれば大きくなると信じてやるしないと思っている。
E先生も、障害当事者の代弁者として活動しているが、他者の他者性を強調すればするほど、分断の溝が深まっているような感覚に陥るという。
課題解決が遅々として進まず焦燥感を覚えたり、時には批判の的に晒されることもあるそうだ。
確かに、私たちは “ 外部 ” の者として、当事者の当事者性を汎化したり普遍化することの壁に何度も突き当たってきた。
翻って、前回紹介した『ニューロマイノリティ 発達障害の子どもたちを内側から理解する』の肝になるのは、“ 内側から理解する ” ことなのだから、当事者及び支援する家族の声を聞く際には、もっと深部に迫る聞き方をすべきではないかと感じた。
E先生のご助言に感謝したい。