#64 ティーチングスキル④ 指示出し人間と指示待ち人間
前回は「指示の出し方」に関する内容だった。
よい指示の出し方については、小学校の授業を見倣うべきだろう。
小学生の場合、そこに配慮しないと大変なことになることを小学校教師は経験的にわかっている。
小学校の授業は実践的である。
中学生くらいになると、多くの生徒が、抽象的な概念や長いセンテンスの指示を、ある程度推測して行動できるようになる。
それでも漏れは出てくる。
有能な大人、ビジネスマンでも、指示を出す者の出し方が下手だと、途端に仕事のパフォーマンスは下がるものだ。
だからこそ、私たちはその適切な指示の出し方を習得し “ 漏れ ” をなくす努力をしなければならない。
誰も置き去りにしない教育とはそういうことなのではないだろうか。
指示の出し方は難しい。
下手をすると「指示待ち人間」を養成しかねない。
学生は総じて素直であるから言うことを聞く。
しかし、ここぞという時に脆弱性が発見される。
「言ってくれたらやったのに」
「言われてないのでやらなくてもいいと思いました」
言わずとも察すれ!
長らく高校教師をしてきた私であるが、今は大学生と向き合っている。
ある意味、楽をさせてもらっているが、気は抜けない。
学生は指示がなければ動かないこともあるし、教師に答えを求めようとする。
例えば教育改革の肝と言われている「個別最適な学び」「協働的な学び」について説明を受けた学生は、途端に思考が迷走し、「実際の授業ではどう対応したらいいんでしょう?」と質問してくる。
そして私は瞑想する。
「むむむっ、自分で考えろよ・・・・」
私 「さあ・・・・私は頭が弱いから正解を知らない。むしろ、私が教えてもらいたいくらいだ」
学生 「センセー、冗談はやめてください」
私「いや冗談ではない。
今は “ 解のない時代 ” と言われているじゃないか。
抽象的な問いや未来のことについては、解がないというよりは、現時点において考え得る最適解は何かを考えることだろうね。
それと、高校の教科に関する学習は、用意された正解(絶対解)を導き出す方法論が中心だけど、総合的な学習の時間(小中学校)や、総合的な探究の時間(高校)は必ずしも絶対解ではないよね?」
私自身、高校教師時代、探究学習や課題研究では、可能な限り
「口を出さない」
「教えない」
ことを心がけてきた。
知らないふりをすることもあれば、本当に知らないこともある。
基本的に教師は「教えたがり」のティーチングマシーンになりがちだ。
簿記や情報などの資格取得は、「生徒を合格させてナンボ」という評価があったので、私は検定試験指導マシーンと化していた時期があった。
質問をぶつけられると、どうしても答えを教えたくなる。
生徒たちが自ら動くようにするためには、教師自身に辛抱強さが求められる。
大学生の場合、論文・小論文作成が多いが、よく「カエル」の話をする。
アマガエル、ウシガエル、アフリカツメガエル・・・・じゃなくて、
「間違える」
「考える」
「振り返る」
「立ち返る」
「組み替える」
「書き換える」
といった思考ガエルの循環をつくることだ。
当然、手取り足取り何でも教えていると非認知能力は育たない。
もがき苦しめ!
基本的な情報だけ提供し、あとは自ら研究・探究するのが大学生のあるべ姿だろう。
しかし、生成AIの急速な進化により教育は新たな局面を迎えている。
このnoteも、AIに文案をつくってもらい、いかにも「私が書きました」という体で発信することだってできる。
その方が読みやすくて分かりやすいかもしれないな・・・・・
教職志望者が、学部・学科で学んでいることの専門性を高めることは、そのまま中学校や高校、特別支援学校の教員としての専門性(教科・科目内容の習熟)につながるが、それだけでは学校現場で通用する力にならない。
教養とは己の足りなさを知ることだ。
後期は9月中旬から。
夏季休業中、じっくり自分と向き合い、どんな教師になりたいのか、教師としてどうあるべきかを考えてほしいと伝えて前期の講義を終了した。