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#259 夏が来て、そして終戦の日が来る

No More Hiroshima

語り部にはなれないけれど

高校教師だった頃、商業だけでなく、日本史・世界史も担当し、授業で何度となく生徒に話してきたことがある。

どこまでも恒久の平和を念願し、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する人であってほしいと。
嘘偽りなくそう思うのだが、人によっては、それは綺麗事にすぎないという。

例えば、「戦争は嫌だが、専守防衛の自衛隊ではなく軍隊を持ち武器を持ち、いざとなったら戦える国であることを他国に示すことが戦争の抑止力になる。そのためには改憲が必要だ」と。

その道を進んだ先には「核抑止力」論が待っているが、それを正義と呼べるのだろうか。

この先、憲法改正の賛否を問う国民投票の時が来たとき、若者達には主体的に考えたうえで投票してほしいと思うのである。

正義は人の数だけある。

賛否は個人の心が決めることだが、知識を持たなければ判断できないし意見も言えなければ議論もできない。

そんなことを考えているうちに、日本の運命の日であった8月6日(広島)が過ぎ、9日(長崎)も過ぎた。
来週15日、終戦の日を迎える。


■戦争遺族として生きた母子

母方の祖父は軍人だった。
ただし、通訳官だったので、最前線で命を賭して戦う兵士とは立場が異なった。

戦時中はいろいろな国を巡回し、終戦を迎えるまでの数年間はジャワ島で活動していた。

連合軍の捕虜から情報を聞き出すこともあったようだが、どのようにしてやっていたかを祖母に聞いても口を閉ざすばかりだった。

ジャワには家族である祖母と息子2人と娘1人(私の母)も暮らしていた。
安全地帯に暮らしていたのだろう。

実はいろいろな情報が入っていたらしく、これ以上戦局が悪くならないうちに家族は帰国させた方がよいということで、祖父だけジャワに残り、祖母と子どもたち3人は日本へ帰国し、祖母の実家がある岡山の倉敷で1年ほど暮らし、その後、祖父の実家がある北海道の網走市に身を寄せたのだった。

昭和20年7月、祖父はインドネシアの現地の疫病で日本へ帰国して治療を受けることになった。

寄港先は広島県の軍港・呉だった。
祖父はそのまま広島中心部の病院へ入院・加療となった。

そして翌月の8月6日午前8時15分、米軍の爆撃機エノラ・ゲイによって核爆弾のリトルボーイが投下された。

祖父の入院先は爆心地から近い所だったそうだ。

遺骨もなければ遺品もない。
知らせは紙切れ一枚で、広島の病院で治療・入院していたということだけだったという。

戦後30年以上経ってから大学生だった私は、初めて広島に足を踏み入れた。

とても暑い夏だった。

どこかに祖父の名前が刻まれているかもしれないと思って市内を歩き回ったが、まったくわからずじまいだった。

原爆ドームと平和記念資料館では、言いようのない悲しみに包まれた。

当たり前だが、私は祖父に会ったことがないので何の実感も持てず、どこか他人事ような感覚で育ってきた。

祖母は30代前半で夫と死別し戦争遺族年金をもらい、炭鉱の事務職員として働きながら子どもたちを育て上げた。

祖母が80歳くらいの頃だっただろうか。
それまで私が聞いたことのなかった祖父の思い出話を聞かされた。

祖母は90歳で往生した。

お盆も近い。
父方・母方の墓前で父母、祖父母に何を話しかけようか。