#274 こころの澱を取り除くために
前回の#273(つぶやき)に関わる話を。
こころの底に溜まっている澱をどうしようか、という話。
教職課程で教師を目指している学生たちに、いつも伝えていることがある。
「知識と技術は大切だけど、それ以上にこころ=あり方論が大切だよ」と。
「チンパンジー先生は精神論ばかり話している」と受け止めている学生もいるに違いない。
精神論といえば精神論かもしれないが、ひたすら「 一に根性! 二に根性! 三、四も根性! いつでもどこでも根性!!」などと言っているわけではない。
昭和のド根性チンパンジーじゃなんだから・・・・・
ともすると学生は「方法論(知識と技術)」を知りたがる。
仮に、それを頭に叩き込んだとしても、向き合う相手は、こころの振れ幅が大きくて多感な時期を生きる少年たちだ。
既存の知識・技術は時として思考の硬直化を招くことがある。
原理原則、やるべきことは「学習指導要領」「生徒指導提要」を読めばわかるし正しいことが書かれている。
でも、それはミニマム・スタンダード(最低水準)なだけであって、現実の教育はマニュアルどおりにいかず多様な対応が求められる。
だから私は学生たちに
「大学在学中に“教育に関する哲学”の壁打ちをせよ」と、しつこく言っている。
それは、内観して「ありのままの自分」を見つめ受け入れること。
そこを出発点にして自分の生き方、あり方を創っていくことではないだろうか。
そのためにも学生時代に、自身の中に潜んでいる心の澱をどうにかすることだ。
私たちは、日常的にいろいろな感情が湧き起こる。
処理し切れない感情は澱となって心の底に溜まっていく。
それを恥じたり罪悪感を持ちながら「いけないボク」「ダメなワタシ」と自分に鞭打つことが往々にしてある。
私の幼少期から小学生時代はそれが極端だった。
多くの場合、道徳観とか倫理観と結びつけて「人としていかがなものか」と自分を責めることがある。
こころの内に澱み、底に張り付いているそうした感情を引き剥がさなければ人は変われないと思うのだ。
以前に書いた「悪しき心は賢しく省みず(親鸞聖人)」の心持ちだ。
罪悪感や羞恥心は、自尊感情、自己肯定感、自己有用感を下げ、それが高じると不安感や人間関係の悪化を招くことにもなる。
「罪悪感」は奏功することがある。
罪悪に対する感情は、外的行動に対する意識を高めて良い方向に作用しやすく、嘘や不正、悪事はいけないことだと健全な後悔を引き出す力を持っている。
早期にそうした心の処理ができるようになれば、ブレーキを踏むタイミングが身に付くものだ。
厄介なのは「羞恥心」だ。
恥は「こんな自分が嫌だ」「バカなわたし」「価値のないオレ」という嫌悪感を強化し、「こんな恥部は誰にも知られたくない」という思いがこころを侵食していく。
そういう子どもたちとどう向き合うかだ。
教師は1クラス40名の生徒に対して、個別最適な学習指導、生徒指導、教育相談、キャリア教育を!
という思いに駆られるが、実際には一人ひとりに対して手が回らず焦燥感に苛まれる教師は多い。
毎日毎日、すべての生徒に公平に丁寧に目配せするなんて到底無理な話である。
教師の本丸は授業だから教科指導力は常に向上心を持って技術を磨くのは当たり前。
でも、勉強もスポーツも特別活動も、根底に「こころを育てる」という思いがなければ、結局「精神論」で励ます方へ流れてしまう。
「頑張れ。何事も努力だ!テストに出るから暗記しろ!!」と。
頑張らなければいけないことは本人もわかっている。
こころの底に澱んでいる「恥」を取り去るためにどうしたらよいかを考えるべきだろう。
例えば、勉強において「10歳(小4)の壁」を超えられなかった負の経験は、心の中に「恥ずかしいこと」として隠されていく傾向がある。
どれほど恥ずかしいことなのか、その度合いに個人差はあるだろう。
本人が自覚している場合もあれば、無自覚に心の奥底に閉じ込めてしまっている場合もある。
何が分からないのかも分からず、つまずきの原因すらわからずに中学、高校に上がっているケースもある。
高校教師だった頃、どうやってそこにパッチを当てようかと悩んでいた。
どうすればよいのかを考えた時期があった。
全方位に目を向けているだけの時間はない。
自分にできることをやるしかない。
私の人生を変えた小学校時代の恩師がしてくれたように、生徒たちにこまめに話しかけることだった。
以前にnoteにも書いたが、廊下で生徒とすれ違ったとき、授業中に机間巡視しているとき、清掃活動をしているとき、行事に取り組んでいるとき、登校時の朝の挨拶運動のとき、いつでもどこでも声をかけるチャンスはある。
個人面談は時間がかかるが、くどくどと長話しせず、すれ違いざまに端的に伝えるだけだ。
油断している時にサラっと伝えるたほうがインパクトがある。
「今日はありがとう!
キミの行動に助けられたよ」
「今日は授業に集中していたね。
みんなのお手本だ!」
「さすが発想が独特で面白い。
センスいいなあ!」
「いつも気が利くね。
ありがとう!」
「みんなが嫌がっていることを率先してやってくれているね
“いいこと言うよりいいことやろう”の実践家だ!」
「仲間思いのキミ、
ほんとうに優しい子だね!」
「言い逃げ」「褒め逃げ」だ。
気になる生徒の友達、その友達の友達に間接的に伝えることもある。
「あっ、先生はボクのことを見てくれているんだ!」
「先生は私のことなんて気にしていないと思ってた」
教師も生徒も「気付き」が新たな行動の源泉になる。
生徒自身が自分の「いいところ」を受け入れられるような言葉をかけること。
日々それの繰り返しだ。
私は大学に勤務してからも同じことをやっている。
それが私の仕事だと思っている。
なんたって、言葉を伝えるのはタダだ。
元手はいらない。
強いて言うなら、些細な行動や表情を観察することと、それを上手く言語化するよう語彙を増やすことか。