#121 読書日記16 カウンセリング 見立ての前に
■カウンセリングの見立てと方針
カウンセリングへのつなぎ役として自分のやっていることが手順を踏んでいるか再確認するために、ワーク形式の本書を購読した。
再認識できたこともあれば、新たな発見もあった。
心理学や臨床心理の分野も進化しているだけに、最新理論を勉強する必要があると感じた。
高校勤務時代はSC(スクールカウンセラー)やSSW(スクールソーシャルワーカー)との緊密な連携は当たり前だった。
退職と同時にそういう世界とは縁が切れると思っていたら、大学でもカウンセラーと連携する機会が結構ある。
大学生は成人であり、大多数は定型発達を遂げているが、それでもちょっとしたことで困りを抱え、心が苦しくなるものだ。
発達に偏りがある場合も適切に対処しなければならない。
地方からやってきた学生は、一人暮らしで保護者の監視下に置かれていない分、生活習慣の乱れが原因で大学から足が遠のいてしまったり、バイト疲れの寝坊で単位を落としたり、成績が下がったり、挙げ句の果てに中退するという事例もある。
小・中学校だと、児童生徒に関する困り事案については文書や面談で「引き継ぎ」が行われることが多い。
高校以降になると、入り口の段階(入試や入学時点)で最も欲しい情報が得られにくい構造になっている。
高校や大学は、第一関門の入試が利害調整の場として機能しているため、中学・高校は、学習成績と内申(適性や実績など)に関する情報は外部(受験先)に提供するが、それ以外のネガティブ情報を受験先へ提供することはない。
ただし、身体や発達の障害などが受験時に不利にならないよう合理的配慮が必要なケースは、受験者と保護者の要請や同意のもとに学校間で秘匿情報として共有することになる。
現在は、そうしたことを理由に受験を認めないとか不合格にするといったことはない。
高校や大学が得る情報は、調査書(学習成績表と生徒の不利益にならない内申書)に書かれていることのみとなる。
■情報屋として陰で動く
過去の洗い出し作業をする場合、高校の元担任や養護教諭にお願いすることもある。
本書を読むと、自分の初動は間違っていないと感じる部分は多いが、それでも実際の「見立て」は難しい。
臨床心理的なことは臨床心理士に任せるが、自分も経験に基づいて提案することがある。
人物に関する査定や心の動きを読み取ることは、カウンセリングの肝ではあるが、カウンセラーや私の経験と勘がハマることもあれば、ハズレることもある。
時として、豊富な経験が認知バイアスとなって邪魔をすることがある。
幸い、カウンセラーは複数体制なので修正機能が働く。
私が関わってきたのはカウンセリングそのものではない。
大学院生の臨床心理実習の指導教官をしていた時は、学校側の課題(学校や教師が抱える矛盾、思い込み、教師の困り感など)をつまびらかにすることがメインだった。
教師の役割は、事案発生の初動において、生徒の話を聞くことから始まって、学校内や家庭の情報を収集し、教員で対処できる事案か、SCやSSWまたは医療へつなぐ事案かどうかを判断することが重要になる。
教師の正義感や知識不足、思い込みが災いして課題解決が遅れたり、事態がこじれてしまうことがある。
そういう状況に陥っていることすら気が付かない場合は不幸である。
私と学生が面談することがあるとすれば、私は傾聴に徹し、自分の手には負えないと思ったら、タイミングを見計らってSCへつなげる。
ある程度改善された段階で通常の指導・助言をすることになる。
多くの場合、私はSCやSSWへの情報提供者ということになる。
本書を読んで思ったことは、カウンセリングに限らず、普段やっていること(例えば、科目に関する相談や就活のためのメンタルトレーニング)に応用できるということだろう。
問題は、PDCAサイクルとして上手く回せているかだ。
人の心を望ましい方向へ導くことは難しい。
そう、望ましい方向は一人ひとり異なるからだ。
「導いてやろう」とか「変えてやろう」と考えること自体おこがましいとすら思っている。
そもそも、専門知識はもとより自分自身の心のベクトルが正しいかどうかも怪しい。
常に自分自身をチェックする必要がある。
昭和から平成、令和と生き抜いてきたジジイと、平成後半から令和にかけて多感な時期を過ごしている若者たちとの環境条件は明らかに異なる。
このストレスフルな時代を生き抜く若者たちの応援者でありたいとは思っている
参考までに本書の概要は以下のとおり。