#19 Pretender と本当の自分
教職課程の学生たちと課外講座で話していて、Official髭男disの楽曲『Pretender』が音楽の教科書に載ったという話になり、話がいろんな方向に広がっていった。
試験や単位修得に関係ない話となると、学生も心が解放され縦横無尽に思考し、何より楽しそうだ。
私自身も解放感に浸りながら、自分にはない若者たちの感性に触れ、いろいろと考えるきっかけになる。
pretenderは「~のふりをする、~だと偽る、なりすまし」といった意味だ。
偽善者と言ってしまうとイメージが悪いかな。
歌詞は聞き手に様々なイメージを想起させる。
教師に例えれば、
「教師の顔をして、実は・・・・」
「教師のくせに・・・・」
といった感じにもなるだろう。
教育や教師のことを語る際、「不易と流行」を並列し、いろんな話をしている。
どのような問いを立てるにしても、「過去・現在・未来」という時間軸で、物事を捉えることを推奨している。
教師として時代を読み取る力が必要だ。
過去から引き継いできた「変わらないもの」「守り続けること」がある一方で、世の中の変化に合わせて「変わっていくもの」「変わらなければいけないこと」がある。
変わることは「成長」や「進化」と捉えることだってできる。
そう、冒頭の教科書の話もそうだ。
公教育で使われる教科書は、文部科学省の検定審査をパスしなければ発行できない。
何かと制約が多いというイメージがつきまとう。
しかし、変化する社会の中で、人々が時代に求めていることは何かということについて、特にグローバリズムの流れの中で教科書が取り扱う内容も変化・進化を辿って今日に至っている。
古い話になるが、SF小説(星新一、筒井康隆などの作品)が国語の教科書に載るまでには相当の時間を要したし、ビートルズの楽曲が中学・高校の音楽の教科書に登場したときは衝撃的だった。
さらにマイケルジャクソンまでも!という小さな積み重ねを繰り返してきた。
そうした動きはやがて、“音楽教育”という枠組みから抜け出して、英語や社会の教科書でジョン・レノンは反戦を唱え続けた人物であるとか、『Help!』という曲は時代を超えて揺れ動く若者の心理を表現した作品として評価を得るまでになった。
人類の文化遺産としてビートルズを語る教員は思いのほか多いが、おそらくZ世代が語る切り口はさらに変化していくのだろう。
NBAの八村塁選手が英語の教科書で取り上げられ、『鬼滅の刃』が国語の教科書に載り、Official髭男dismやYOASOBIの楽曲が音楽の教科書に載るといった情報が流れ、人々はいろんな反応を示した。
そんなことは受け容れられないという人もいるのだろう。
昨年、授業の中で、「大学生の君たちはどんな楽曲を聞いている?」という問いかけに対して、髭男やKing Gnuがあがっていた。
流行りの楽曲は時代を映す鏡とも言われている。
大人が守ろうとしているのがメインカルチャーだとしたら、それに抗う形で登場するカウンターカルチャーやサブカルチャーは、若い世代から生み出され、やがて社会を席巻し、文化に大きな変化をもたらすことさえある。
そうして新たな価値観が形成されていくのだろう。
私たちは常に社会の変化を見つめながら、様々な角度から物事を眺め分析し、何を未来へ継承していけばいいのだろう、ということを考えている。
「遊び」と「雑談」の多い企業は強いという。
安定した成長を続ける企業では、祭りごとが多いという統計データもある。
しかし、コロナ禍の中、多くの組織では、遊びも祭りも自粛が続き閉塞感に苛まれている。
そんな時代背景の中から生まれる音楽には、人としての大切な思いだったり、鬱屈とした気分を打破する魂が宿っているのだと思う。
翻って、pretenderの話を。
教師はいついかなる時も正しく、どんな時でも強い人でなければならないのか。
多くの教師はそこで思い悩むのである。
教師であるが故に、あらゆる面において「生徒よりも優れていなければならない」という思いにかられ、時に演じたり(本当は存在しない私を見せたり)、カラ元気を出して生徒を励ますことがある。
ストレスフルな社会における「生きる力」は児童・生徒だけではなく、子どもたちの先頭に立って手を引いたり、並走したり、後ろから背中を押したりする大人たちにも必要だ。
教師になろうとしている者は、時には「演じている私」も必要だが、「ほんとうの私」を見せて勝負することもあるだろう。
さて、ほんとうの自分って何だろうね?
学生と話しているうちに、また宿題が増えた。