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#242 石も磨けば玉となる 価値は価値を見出そうとする者に宿る
現高校3年生が大学受験する時には、大学入学共通テストも一般試験も新学習指導要領に準拠した出題になる。
「総合型選抜(旧AO入試)」や「学校推薦型選抜(旧推薦入試)」では、『総合的な探究の時間』を核にした思考力・判断力・表現力を試す選抜方法も導入される。
決められた解を求める入試から「考える力+表現する力」へ舵を切ったわけで、入り口の部分が改革されるのはいいことだは思う。
しかし、入ってからの中身が重要だ。
入学後に進路や専門を決められるレイターマッチング(later matching)やレイトスペシャリゼーション(late specialization)と呼ばれる制度により、1・2年生のうちは教養科目を幅広く学び、2・3年生に進級する際、自分の興味のある専門分野を選択できるシステを導入する大学が増えている。
産業界(特に経団連)からは「特定分野の専門性もいいけど、学生にちゃんと幅広い教養を身に付けさせてよ」という声が大きくなっている。
専門課程に進学した後も他の分野や分野を超えた内容を学ばせる「後期教養教育」を導入している大学が増えているのはそうした背景がある。
すでに2008年から導入している東大の「進振り(現「進学選択」」はその先駆けとも言える。
大学というところは、いつどこでどのように役に立つかよくわからないことも含めて「研究する機関」として存在してきたのだが、今は社会で使える一般教養もしっかり身に付けるために、詰め込み型のカリキュラムも提供するようになった。
学生にダブルスクール(大学へ通う傍ら資格取得のために専門学校へ行く状況)が起こらないよう、各種講座を用意している大学も少なくない。
政府は2022年以降、各種施策を通じてDX人材を230万人創出すると言っている。
文系・理系を問わず大学に寄せられる期待は大きい。
大学のあり方は急激に変われるものではない。
学内にいる教員は研究家肌の人ばかりで、イノベーションに対する抵抗勢力になりがちだ。
社会の一システムとして君臨してきた大学は、ちょっとやそっとじゃ変わらないだろう。
従来、「教養」の概念は、素養を持つ人格へと自己形成するプロセスが含まれていた。
ところが、今はそこを大学が手厚くお世話しているようなものだ。
大学には特定の分野を研究する(研き究める)ための学問的に造詣の深い研究者がゴロゴロいて、図書館に行けば一生かけても読み切れない量の専門書や視聴覚資料がある。
国内外の研究論文はオンライン手続きさえすればダウンロードできる時代だ。
こんな環境のいいところにいるのだから、学生は大学を学びのフィールドにして上手く活用してほしいと思うのである。
大学は、学問との出会い、優れた研究者との出会い、よき書物・専門書との出会いの場だ。
漠然とキャンパスライフを送ったり、家でゲームや動画に興じて昼夜逆転する学生がいる一方で、部活・サークル活動に頑張る者や研究活動に励むアクティブな学生もいる。
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「このまま大学に頼っているだけではダメだ!」と考え、いわゆる自主ゼミ(学生たちの学生たちによる学生たちのためのワークショップ、勉強会、読書会、輪読会など)をやっているケースもある。
そこに学部を超えた教師や先輩を招いてレクチャーを受け、幅を広げている。
私も時折お邪魔して、たじたじになることがある。
むかし昔、その昔、私が大学生だった頃、そういう動きをする学生もいたことはいたが、どちらかといえばサークルとして遊びの要素も取り入れながらの活動だったような気がする。
今や「教養を深めること」を核にした学びの場が学生たちの手でつくられていることが当たり前になりつつあることに驚いている。
大学の内部改革が遅々として進まないという状況のなか、「主体的・対話的で深い学び」を当たり前に体験してきた世代が入ってきている。
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単位修得を早取りして1年次に時間割の中に科目をぎゅうぎゅうに詰め込むよりも、もう少し隙間をつくって空いた時間に偶然の出会いを楽しみホンモノの「知の創造」を享受してほしいと思うのだ。
大学は「お客様集め」のために、ピカピカに磨いて美しく輝く宝石(カリキュラム)を提供しようと必死になる。
みんな似たようなことをやり始めると、ブランディング戦略は難しくなる。
少子化が加速する中、パイの奪い合いが始まっている。
しかし、価値は道ばたの石ころのようにそこらじゅうに転がっている。
石も磨けば玉となる。
価値は価値を見出そうとする者の中に宿る。
拾った石ころを磨いて玉にするのは学生自身だ。
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オープンキャンパスや出前授業で話す機会は多いが、パンフレットや大学のウェブページに載っていることを話しても意味がない。
そんなことは高校生のほうがよく調べていて私より詳しいくらいだ。
私は高校生に、「大学内に何気に落ちている石を拾え。それが君の宝になる」と呼びかけている。
※画像は全てMicrosoft Designer の Image Creator(画像生成AI)によるもので実在する人物ではありません。