#298 読書日記43 こんなとき私はどうしてきたか〜プロが陥る罠
『こんなとき私はどうしてきたか』 中井 久夫
教育新聞に以下のような記事が載っているのを見て、本書における中井氏の言葉が蘇った。
■専門家が陥る罠
10年前、高校で校長をやり始めた頃、知り合いの精神科医と私で主催した「当事者支援のあり方」というフォーラムの中で、2人でトークセッションをしたことがある。
その時はじめて中井先生(2022年、88歳でご逝去)の存在を教えていただいた。
偉大な医学者だ。
「統合失調症を学ぶなら中井久夫」というアドバイスに従い、中井氏の単著・共著のいくつかを読んでみた。
医療従事者向けの難解なものもあるが、一般向けに書かれたものもある。
人心の機微を心得ているからなのか、エッセイや講演録はわかりやすい。
専門分野の話でも、読み手の心にスーっと入ってくる浸透度の高さを感じる。
すべての疾患に解決をもたらす万能薬にはならないが、精神科医として心のありようを説いている。
氏の考え方は、教師やカウンセラー、相談・支援をしている人にも必要なマインドだと感じた。
たとえば、こういうことだ。
患者が積極的に自分の病理について医者に話すと、医者の内面が刺激される。
「よい医者である」「熱心な医者である」など、医師に対する賞賛や感謝の念によって医師の内面は強化される。
患者が医者に多くの病理症状とともに賞賛や感謝を伝えた場合、その患者の予後はよくない、といったことが起こり得るという話だ。
医者は病的な面に注目し熱心に対応するが、そこには秀才ドクターが陥りやすい罠が隠されているという。
病理の異常現象そのものは専門的な見地から詳しく分かっているけれど、寛解(回復)過程において、医者は患者の症状がある程度収まったら急に気を抜いてしまい、事後の細やかな目くばりや心づかいとか、その現象に対する「耐え方」「構え方」「受け止め方」への視点が欠落する傾向にあるというのだ。
それが「専門家に多くの情報や思いを与えた患者の予後はよくない」という意味だ。
患者が「もう幻覚も起きないし、わたし大丈夫です」と、にこやかに話せば医者は安堵する。
私自身、自分の立ち場に置き換えて、ふと思ったのだ。
これは、なんらかの職種や肩書をもった専門家(学校の教師・養護教諭、カウンセラーやコーチなどの士業・師業の人)が好評価をもらうと、知識や技術を磨く上での動機付けや励ましになる一方で、その裏には多くの危険が潜んでいるということを自覚する必要がある、ということだ。
現場の最前線で仕事をしているプロだと自負する人はたくさんいる。
ただし、自己のパフォーマンスについて、冷静にモニタリングを冷静できているかということが何よりも重要になってくる。
お調子者の私だ。
褒められれば有頂天になるし、経験値が上がったという勘違いも起こりうるだろう。
失敗は誰にも起こりうることではあるけれど、肩書きに見合った真正な専門家、プロフェッショナルなのか、あるいは、名ばかりの専門家なのかという分岐点である。
教師は児童生徒の話を熱心に丁寧に聴き、寄り添いの気持ちを大事にする。
保護者・家族から見ても信頼できる望ましい教師である。
表面的には事が順調進んで何も起こらないように思われる。
「でも、その患者の予後はよくない」という中井医師の言葉が再び重い言葉として脳裏をかすめる。
学校現場における教師やカウンセラー、コーチといった対人支援ワーカーはもとより、教員を指導する立場にある校長・教頭、教育委員会のすべてに正常性バイアスの罠が潜んでいる。
中井氏は、自身の体験をもって、その狭小にはまる恐ろしさを指摘し、そこにはまらないようにすることの難しさを説いている。
医師が一生懸命に勉強して対応すればするほど、患者の人生はどんどん病気中心になっていき、病的体験中心の人生になる。
患者と家族も含めて、その心の病理に対する手当はとても難しいことであり、でも寛解へ向けて努力する覚悟を持つのがプロフェッショナル。
専門家としての矜持、探究心や自己肯定感を得たい一人の人間として、たとえそれが純粋な思いであったとしても、視野狭窄に陥ってしまうと、支援者も当事者も不幸になってしまう。
自分を制御し、他人の人生全体に向き合い続けられるかどうか。
職種も肩書も抜きにして、一人の人間としての自己のありようを考えなければならないと改めて思った次第。