#88 面白半分日記04 夢を削りながら年老いてゆくことに気がついた時 はじめて気づくこと 『陽はまた昇る』
ナンバー88のゾロ目か。
ここらでひとつ自分のnoteを反省・総括し、課題を設定しようと考えた。
仕事で毎日3,000文字相当の教材をつくったり、学生向けの教職コラム1,500字を書いている。
その勢いにまかせて、文字数を気にしなくてよいnoteに駄文をツラツラと書き連ねてきた。
どうも文章が長いなと感じる。
読者は1編につき平均10名程度。
書くことを生業にしているわけではないし「スキ数」を伸ばすために、あの手この手の努力をしているわけでもない。
なんなら1人でもいい。
その1人は自分。
ぼっちノートも悪くない。
私の目的は思考のトレースと備忘録。
それでも、見ず知らずの人に「スキ♡」をもらうと小躍りしてスキップして「じゃあもう一度書いてみようか!」ということを繰り返し、1年が立とうとしている。
でも、あまり色気を出すと違う方向に行きそうな気がする。
スキされた自分の記事のタイトルを見返して、「あれ?この記事どんなこと書いていたんだっけ?」と忘れていることが多い。
片っ端から忘却の彼方へ消え去っている。
そろそろお迎えが来るのかもしれない。
書いた内容が思い出せなくて改めて読み返してみる。
そして思うのである。
寄り道、回り道だらけでなんと無駄の多い文章なんだと。
今後はサクっと読んでもらえる1,000文字、多くて1,500文字程度に収めようと思う。
前職では部下が書いた公用文に対して非情なまでに朱を入れて加除修正を求めてきた。
「人目に触れる文章は書き方次第で命取りになることもあるんだぞ」
と、上司に徹底的に叩き込まれたせいもある。
上司から言われたそのときは「命までは取られないべ」と内心では反抗的だったが、立場が人を変えるとはよく言ったものだ。
今や、私を指導したり叱責する上司や先輩はいない。
あの世で私に腹を立てている人は100人くらいはいるだろう。
今のところ、私のことを叱るのは妻くらいだ。
トイレで用を足している最中に出会う理事長や学長にすら叱責されたことはない。
でも、そのうち叱られて、場所が場所なだけにちょっとチビってしまうことはあるかもしれない。
学内では、私以外の教員はスゴ腕の学問研究者ばかりだ。
高度な研究論文を査読できる方々が揃っている。
私だけがユルユルで規律性に欠ける教員だと思われたくないので、学生から提出される日々のレポートや小論文、論文に対しては厳しく対応している。
もちろん自分のことは棚に上げて、さらに金庫に鍵をかけて隠蔽工作を図っている。
でも、年を追うごとにチェック能力が低下していると感じるようになった。
学生の文章を読んでも全然理解できなくなってきている。
先週、80名の学生に小論文を提出させた。
今日から読み始めている。
主語がどこにあるか探せない。
主語があっても述語との関係性を見出せない。
名詞を修飾する形容詞がなぜそのように形容されるのか理解できない。
修飾語がどう修飾されているのかわからない。
「てにをは」などの助詞、助動詞が性格に判断できない。
文脈を把握できない。
テーマに対してどう正対しているか判別できない。
文章を読んでいて迷子になる。
遂には意識が混濁する。
私の脳はかなり重症化しているのかもしれない。
もしかすると、国語審議会によって日本語の文法体系が改訂されたのかもしれない。
そうか、私が勉強不足なだけか。
あれもやりたい、これもやりたい、それはやりたくないと夢を追い続けながら生きてきた。
無駄も多かった。
気が付けば年老いている。
老いても『 陽はまた昇る 』ことを信じて生きていく。
弾き語りをするきっかけを与えてくれた谷村新司がそう歌っていた。
これで1,500文字。
ビンゴ!
神業だな。