#22 失敗と挫折の神
■逡巡せよ
たまに、学生から質問を受ける。
「センセーのご専門はなんですか?」と。
本当はマーケティングと言いたいところだが、私のヘソはかなり横にズレた所に付いているので、こう答える
「失敗と挫折が専門だよ」と。
学生は一瞬、えっ!?という顔をする。
「こんな先生の下で学んでいていいのだろうか」と不安に思っているに違いない。
後期の授業も試験も一段落し、研究室に閉じこもって新年度の授業準備をしていると、“ ひきこもり ” になりそうなので、時々運動を兼ねてキャンパス内を徘徊する。
別宅(教職指導室)に行くと、隣の自習室で勉強している学生が、待ち構えていたかのように、あれこれと質問してくる。
空き教室でやっている課外自主ゼミに顔を出すと、「私たちの模擬授業を見てください!」とお願いされることがある。
みんな熱心だなあ。
私の学生時代とは大違いだ。
総じて、みんな真面目である。
新年度に教育実習に行く学生たちは真剣そのものである。
教育実習が終わってバタバタしているうちに教員採用試験を受験する。
みんな、いろんな不安を口にする。
「落ちたらどうしよう」
「センセーは現役合格だったんですか?」
悩める青年たちよ、今のうちに思いっきり悩め。
逡巡せよ。
私の人生、負け越し中。
戦績は10勝1,000敗じゃないだろうか。
今や「失敗の専門家」「失敗の神」だ。
何かの罰だろうか?
イソップ物語の「悲しみの神」みたいだな。
大学は一度中退し、受験しなおしている。
教員採用試験は一度落ちている。
わずかながら民間に身を置いたが、再チャレンジして高校教師になった。
40歳から受け始めた管理職試験は4回泣いて44歳で受かった。
失敗や挫折に造詣が深い超専門家たる所以だ。
■キャリアってなんだ?
こう見えて(どう見えているかわからないけど)、学生の質問には真面目に答えることだってある。
「キャリアとか職業観・勤労観ってなんなんでしょう」
「キャリア教育」は、進路指導とか職業教育という枠組みで収まるものではなく、「生き方、あり方」の探究だと言われている。
学生たちは、インターンシップやアルバイトの経験だけで仕事のすべてが分かったつもりになっているわけではない。
頭で分かっている部分もあるけれど、ビジネス経験のない分、具体化・言語化することは難しい。
キャリアの語源は「轍(わだち)」だから、「過去(履歴、足跡)」ということになる。
現在(present)は、過去(past)からのプレゼント。
キャリアとは、未だ来ない明日、未来(future)の自分へ贈るものを生み出す営みの連続だと考えたい。
学生は不安に襲われる。
「教師になれなかったらどうしよう・・・」
そんな思いは、誰もが通る道。
公務員だろうが民間就職だろうが、みんな一緒だ。
自分で勝手にネガティブな未来を思い描いてはいけない。
セルフマインドコントロールでネガティブ思考を強化してどする?
よい未来をイメージし、そのために必要な努力は何をすることか考え、学内外のいろんな機会にチャレンジすることだ。
・・・・と、とりあえず「失敗の神」という崇高な肩書きの私でも、わりと当たり前のことを言うことだってある。
私自身、いい歳をした大人(いや老人ではあるけれど)、職業人として一点の曇りもなく常に溌剌として働いているわけではない。
何となくモヤっとした部分だってある。
あまり愚痴はこぼさない。
失敗したっていいじゃないか。
学生たちに対しては、私の経験話で解決できることと、できないことがある。
それは、私だけの物語、私ならではの物語という部分もあり、いいと思うころだけ酌み取ってくれたらいい。
やはり自分らしく生きて、自分で切り拓かなければならないことがある。
私自身、教育公務員から一転して、まったく異なる勤務態様と研究機関における使命の在り方に面食らいながらも、若者たちの成長を支援・応援するという気持ちだけは揺るがずに維持している。
■いろんな思いを携えて
社会で活躍する教え子達に会って話を聞くことがある。
「全然、楽しくないです。とにかくきついっス 」
「人間関係がぐちゃぐちゃで煩わしいことばかりです 」
「退屈すぎて、やり甲斐を感じられないです」
「とりあえず食べるため 、家族を養うために頑張ります 」
「3回転職しましたが、現状に納得していません」
「オフを楽しむために仕事をしているようなものです 」
「いくら頑張ってもアホな上司のせいですべて台無しです 」
「上司がイタイ人でやってられません 」
「やっぱり女性はいろんな面で差別されていると感じます」
「陰で悪口ばかり言う同僚に腹が立ちます」
なるほど、なるほど。
彼ら、彼女らは、やるせない気持ちを理解してほしくて、感情にまかせて言い放つこともあるが、本当に辛いことだってあるだろう。
私に解決を求めているわけではないことはわかる。
愚痴をこぼして、それで癒やされるのなら、それはそれで構わない。
仕事は、嫌なこと面倒なことも含めて、苦労や責任の対価として給料をもらっている。
何の責任も苦労もなく、終始面白くて笑いが絶えず、夢にあふれていてパラダイスのような職場なら、それはアミューズメントパークだから、こちらから金を払わなければならない。
楽しげに話す教え子もいる。
「働きやすい職場です」
「もう少し頑張れば昇進できそうです」
「新規の契約を取って部長・課長にほめられました」
「給料は安いけど貯蓄もして、そこそこに暮らせています」
「いつもお客様に感謝されて嬉しいです」
そんな前向きな言葉の裏にも、いろんな苦労があるに違いない。
こころ持ちの問題だ。
私が初任の頃の教え子達は50代に突入し、最後に学級担任をした子達は30代後半に差し掛かっている。
営業、経理、販売、製造、サービス業、エンジニア・技術屋、士業などさまざまだ。
政治家、起業家もれいば、教員をしている者、専業主婦もいる。
みんな、いろんな思いを携えて人生を歩んでいる。
ふと、日常のアホな自分を振り返ってみたりする。
自分はこの仕事に生きがいや誇りを持っているか? と。
今ある自分は、すべてみなさんのお陰。
感謝しかない。
面倒なこと、煩わしいこと、辛いことはたさくんあるけれど。
■解のない時代?
経済・産業、労働市場、日常生活、社会全般に不安と不満が溢れかえっている。
「 仕事なんて楽しいもんじゃない 」「やってられないよな」という思いが常態化し、そういう状況下で形成される職業観や勤労観は歪み、経営者も従業員も心がすさんでいく。
次世代を担う子どもたちのキャリア形成や職業に悪い影響を与えないようにしなければいけない。
楽しそうに生き生きと仕事をしている人は間違いなくいる。
反面、なんだかつまらなそうだったり、できるだけ責任を持たずに楽をしようと思っている人もいる。
人間関係の調整ばかりに追われ、本務を見失っている人もいる。
どこの職場にも様々なタイプの労働者はいる。
一生懸命に学校でお勉強した先に待っているのは 、 辛くて苦しい仕事ばかりなのか。
思うに、仕事をつまらなくしているのは創造性や改革の欠如ではないのか。
ほんのわずかでも、主体性や創造性をもって臨むとか、改善・改革の気概があれば、そこには必ず喜びや生きがいが生まれるものだ。
しかし、個人の資質だけではなく、組織のありようも問われる。
流れのない淀んだ川の水は腐る。
水をせき止めているのはアホな上司という場合もあるだろう。
腐った水の中にいると、やがて悪臭に対する感覚も麻痺し「 まあ、仕方ないよなぁ 」 となり、みんなゾンビのようになっていく。
「2045年問題」と言われていたシンギュラリティ(技術的特異点)は、予想以上にAIが急速に進化し、ChatGPTの登場によって、大きな転換点を迎えようとしている。
この先のキャリアデザインにも何らかの影響があるかもしれない。
学校教育で手掛けるキャリア教育は何をすべきか今一度に考えなければならない。
アクティブラーニング、ディープラーニングの推進とは裏腹に、パッシブラーニング(受動的な学び)の学生は案外多い。
自ら考え、自ら行動し、自らの未来をつくるのはあなただ。
「解がない時代」と言われるけれど、あなたならではの解、別解、最適解はある。
「失敗を恐れるな!」と、とりあえず学生に言ってみた。
失敗と挫折の神がついているぞ!
えつ? それ疫病神にしかならないって?