#26 私が知っている「わたし」と、あなたが知っている「わたし」のズレ
◆性格診断や占いって・・・・・
教育心理学の講義で「性格」「人格」「気質」を扱ったことがある。
学生たちが何だかつまらなそうな顔をしていた。
「教員採用試験に出るぞ!」・・・・と、私が一番つまらないことを言っている犯人だ。
息抜きに問いかけてみた。
「血液型性格診断とか、占いって信じてる?」
学生達が答える。
「当たってると思うことが結構あります」
「なんか、欠点を指摘されると何とかしなきゃと思います」
「信憑性がないと思いながら、意外と気にします(笑)」
「いいことだけ信じて、悪いことは気にしないようにしています」
「朝、出がけに、今日の運勢を確認します」
そうか・・・・・
私は、とりあえず精神医学や心理学など科学的な手法のほうに軍配を上げる。
「君は血液型が△型だから、天才肌で頭脳明晰、社交的・友好的なタイプだね」
そう指摘されたら、「キャー当たってますう!」と喜べばいいのか?
血液型が重要なのは、輸血の時だけじゃないのか?
あるいは
「あなたは○○座だから、斜に構えるタイプで、気が強くて、いざとなったら同僚だろうが上司だろうがハッキリ言うほうで、結構、敵が多いでしょ?」
「あー言い当てられてしまった! オレ、やっぱり、そうなんだ・・・・」とショックを受けて自ら奈落の底へ転げ落ちていくのか。
自分をしっかり俯瞰して、未来は自分の意思で切り拓きたいと思うのだが、なかなかどうして‥‥
◆諸問題は性格に起因しているのか?
物事が上手くいかないと、その原因や、他者と上手くやれない理由を知りたくなる。
自らの性格をどうにかしたい、という思いにかられる場合もあれば、「すべてアイツが悪いんだ」「組織が悪い」「システムがポンコツだ」と考える場合もある。
防御本能が働くのが普通だが、それにしても人の心というのは実に厄介だ。
心理学にも「性格、人格、気質」の定義があるが、それは単に分類するだけだ。
心の安定をはかるための解決へ向けた方策や方法論があって、それを臨床心理士が手助けをしてくれる。
これまで、「○○心理士」や「△△セラピスト」などの民間資格は、何だか曖昧で、グレーゾーンで活動している怪しげな心理士や団体もあったが、国家資格として「公認心理師」が登場したことによって状況は変わってきている。
厚労省では、公認心理士を次のように定めている。
しかし、カウンセリングは、最初からすべてを解決してくれるわけではない。
コーチングもそうだろう。
すべての問題や悩みは、当事者の「思考(心)」にアクセスし傾聴しなければわからない。
◆もじれる社会
現代社会を「もじれる社会」として述べたのは、本田由紀氏(東京大学大学大学院教育学研究科教授)である。
『もじれる社会』ー戦後日本型循環モデルを超えて- ちくま書房
もじれる(よじれる、ねじれる)に「もつれる」を加えた概念で社会構造が語られている。
社会の様々な問題が、個人の考えや企業活動、教育活動に影を落としているとしたら、私たちはどう生きていけばよいのだろう。
それを「個人」の性格だから仕方ないと考えるのは不幸である。
分類して把握される「性格」というのは、誰かから観察される個人の行動傾向だ。
第三者によってテスト・検査、観察された結果である。
基本的には、背が高いですね、スタイルがいいですね、体が柔らかい!美しい!・・・という評価と同じだと私は思っている。
有利になることもあれば、ならないこともある。
いいことを言われれば嬉しいし、欠点を指摘されれば嫌な気分になる。
変えられることもあれば、変えられないこともある。
もし私が「チンパンジーに似ていて、猫背ですね」と評価されたら、鏡に向かって、極めて人間らしい笑顔になるようトレーニングに励むし背筋を鍛えるだろう。
そういう問題ではないのか・・・・
◆多数の主観に振り回され
「わたしが思うわたしの性格」というものがある。
それは、他人が観察した「わたし」と異なることが得てしてある。
「わかったふうなこと言いやがって」
「コイツ、俺のことちっとも分かっていない」と思うことがある。
私が知っている(あるいは思い込んでいる)「本当のわたし」と、他人が観察した「わたし」は必ずしも一致しない。
少なくとも筆者である私は、「あなた好みのわたしになります」なんて従順なタイプではない。
「この性格、変えなきゃダメだかな」「嫌われたくない」と思う人は、気になり出すと際限なく、自分の性格を嫌悪する。
逆に、前向きに「変えたい」と思う人もいる。
YG検査やSPI検査なら信用できるが、非科学的な診断(生年月日や血液型、カード占い等で読み取った情報によって導き出された性格の分類は、なんだかアレだなぁ・・・・と思うのである。
人が観察した印象だって、認知バイアスがかかっていることがある。
これは客観というよりも、相互主観、間主観、多数派の観察結果に過ぎない。
「性格に客観的な真の姿(真に良い性格、素晴らしい性格)がある」と考えてしまうと、生きづらさを加速させてしまうだけだ。
自分が考える自分の性格と、他者が考える自分の性格との食い違いはあって当然。
人の評する性格なんて、場面・状況、視点、観察する人によって変わるものだ。
私なんか、相手によって「いくつもの自分」をとっかえひっかえ出している。
これを多重人格と言えるだろうか。
八方美人、風見鶏か・・・・・
私は「親切な人」と見られることもあれば、「こだわりが強い人」「朗らかな人」「冷徹な人」「厳しい人」と見られる場合もある。
どれも私の中に存在する「本当のわたし」だ。
ある生徒のことについて先生方と話をすると、生徒への評価が割れることがよくあった。
◆主観と主観のぶつかり合い
A先生は・・・・
「あの子は性格的に引っ込み思案で大人しくてコミュニケーション能力が低いですよね」と評する。
でも、私から見たら・・・・
「彼は大人しいけど、時間をかければ素直に話し、結構、筋の取った考えを持っているよ」となる。
対話した人、場所、場面、状況によって、人はいろいろな顔を見せるものだ。
A先生に見せる顔と、私に見せる顔が違うのだろうし、きっと、A先生にも私にも見せない顔があるに違いない。
◆生き方、在り方の行動様式を変える
誰かから自分の性格の欠点を突きつけられて、「この性格を直したいなあ」と思ってしまうような人は、性格を変えようということに注力しないほうがいい。
もしも、上手くやれないとか、生きづらさを感じているなら、それは、自分の性格のことを悩むより、視野を広げて「生き方」を改善するための行動様式を変えることに目を向けたほうがよいと思うのである。
生き方とは、状況把握と価値判断と決断行動というプロセスだ。
性格の善し悪しに関係なくできそうなことではないだろうか。
要は、周りの環境や出来事とうまく適合しているかということが重要なのであって、性格というものは、自分の思い込みだったり、第三者が一面的に観察した「観察日記」程度に思った方が気が楽だ。
どんな性格でも、それが「個性」であり、個性は最高に素晴らしい、ビバ個性!ブラボー!!・・・・と言うつもりはない。
「この人とは一緒に上手くやっていけない」「やりにくい」と感じるのであれば、周囲の環境や人に適応していないのだから、適応するために自分はどう行動すればよいかを考えればいい。
そうした問題を解決するには、観察日記みたいなものに示された「わたしの性格」を変えるということに苦しむよりも、「私の生き方を変えよう」と考え、ポジティブ行動を習慣化したり環境を変えることのほうずっと健全だ。
明るくて社交的で、いつも笑顔を振りまいている人は、常にWell-beingかというと、それは本人でなければ分からない。
人に気をつかって神経をすり減らして疲れているという人は案外多い。
明るい性格ゆえに辛さを抱えることだってある。
38年間にわたって高校生、大学生徒と向き合う中で、いろいろなケースに出会った。
悩んでいる人というのは、外見の容姿や内面の性格のことで悩んでいるように見えて、その実、自分自身の「生き方」「在り方」が周囲の人や環境に対して不適合を起こして悩んでいることが多い。
外圧や外の雑音を跳ね返すだけのパワーがあるなら誰も悩みはしない。
私自身もいろいろな圧力や関係性に苦しんだことが何度もあった。
自己分析することで自分を知ることは大切だが、今は必要以上に自分にムチ打つようなことはしないようにしている。
もし、自分の外面・内面を変えることが必要だと感じることがあれば、外面や内面そものを変えることに強く意識を向けるよりも、自分自身の生き方や環境そのものを変える行動を起こしたほうがよいと考えている。
生活に小さな変化を加えリズムを変えたり、何か新しい習慣を作り出すことで案外、道が開けるものだ。
ただし、これは絶対解ではない。
私個人の体験に汎用性があるとするのはあまりにも狭すぎる。
心の負担にならない取り組みとして「好き」「面白い」「楽しい」「誰にも迷惑をかけない」を見つけながら生活したいと考えている。
今は多世代の「居場所づくり」「まちづくり」に関わって、いろんな子どもや大人と対話しながら、あれこれと考えている最中だ。