見出し画像

これまでの剣道人生を全て語ります。

どうもこんにちは、スズキコウタです。

普段はYouTubeで「技の解説」や「海外の剣道」などをテーマに、剣道に関する動画をアップしています。

今回は改めて、これまで僕が剣道を通して経験してきたことをまとめていきたいと思います。「剣道人生」と呼べるほど大袈裟なものではありませんが、よかったらお付き合いください。

剣道の発信を始めたのは2018年の9月。このnoteというアプリで「剣道ブログ」を100本ほど書き、2019年の1月からYouTubeを始めて今に至ります。ブログ期を含めると8ヶ月ほど続けてきたことになりますね。

これまで自分自身のことはあまりアウトプットしてこなかったのですが、少しずつ見てくれる方が増えてきているので、今回は僕自身の剣道のバックグラウンドを書いていきたいと思います。


第1章 剣道が嫌いだった (小学校2年生-4年生)


剣道を始めたのは今から13年前。

とても内気な性格だった僕を心配した大人たちが「何かスポーツをやった方がいい」と考え、父親が学生時代にやっていた剣道をやることになりました。

小学2年生に進級した4月1日。近所の剣道教室に入門し、週に3回、家から歩いて道場に通っていました。

始めたばかりのころは、稽古が楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。

同じ学校の同級生2人と一緒に道場に通い、稽古が終わった後もその2人とくだらない話をしながら家に帰る。最初は遊びみたいな感覚で稽古に行っていたことを覚えています。


僕が剣道を嫌いになり始めたのは、その1年後くらい。防具をつけての稽古が始まった頃でした。

身体が小さかった僕にとって、剣道の防具はとても重く、自分の思うように動けないことに苦しさを感じるようになりました。

その頃から稽古もだんだん厳しくなっていきました。学年が上の先輩たちと同じ稽古についていくのが大変だったのと、いちばんの原因は先生が怖かったことです。

今思い返せば、可愛い話ですが、そのとき小学3年生だった僕は、先生のことを相当怖がっていました。僕の中でいちばん怖い人でした。

稽古に行くのが嫌になって、剣道が嫌いになってしまいました。稽古がある日の学校の帰り道では「帰ったら稽古に行かなければいけない」という恐怖で泣いていました。今考えればヤバい小学生ですね。

家に帰っても泣き散らして、稽古に連れていこうとする母親に必死に抵抗しました。家の玄関の門にしがみついて「行きたくない!行きたくない!」と泣き叫んでいました。

それでも結局連れていかれて、週3回の稽古にはほとんど毎回通っていました。泣き顔で先生に「…こんにちは…(グスン)」と挨拶をして厳しい稽古を何とか乗り越えていました。


嫌々剣道を続けていましたが、それでも稽古を積み重ねることで自然と力がついていたようで、小学4年生に進級してすぐの県大会。小学生低学年の部の団体戦で優勝することができました。

小学4年生ながらその優勝はとても嬉しくて「頑張ってよかった」と思った最初の経験でした。今まで大会で良い成績を残したこともなかったので、この優勝で「自分でもできるんだ」という自信を持ったと思います。


第2章 大きな飛躍と苦境(小学5年生-6年生)


団体戦での優勝をきっかけに大会でも徐々に勝てるようになっていきました。相変わらず稽古は厳しかったですが、それでも試合に勝てることが嬉しくて剣道が好きになっていました。

学年が上がった小学5年生。僕の通っていた道場ではその年、6年生が少なかったこともあり、5年生になってすぐ高学年の選手になりました。5年生と言えども道場の代表選手。甘えたことは言っていられませんでした。


春に行われる全国大会の県予選に向けて稽古に励みました。しかし一回戦から強豪チームに当たってしまい予選敗退。全国大会出場の目標は叶わず、僕たちの次の目標はフリー参加の全国基本錬成大会になりました。

フリー参加だけに出場チームが多すぎるため、2日間でブロック優勝した16チームが全部優勝!というきちんとした全国大会ではないのですが、僕が通っていた道場では毎年その大会で優勝することが大きな目標になっていました。

会場は日本武道館。夏に向けて稽古はさらに厳しくなっていきました。春の全国予選で敗れてしまっただけに、この基本錬成大会では絶対に優勝したいという気持ちが僕の中にも、他のメンバーの中にもありました。

迎えた大会当日。厳しい試合もありましたが、何とか優勝することができました。春からこの大会を目標に厳しい稽古を乗り越えてきたので、優勝できたことが本当に嬉しくて、涙が出てきました。うれし泣きをしたのは、そのときが初めて。それほど達成感があったのだと思います。


大会でも成績を残して順風満帆に行っていた5年生の夏の終わり。僕に大きな苦境が訪れることになりました。当時の僕は、厳しい稽古と大きなプレッシャーで体力的にも、精神的にも追い込まれていました。

出稽古に行ったある日、あまりの暑さに耐えられず稽古中に倒れてしまいました。水分を摂ってその後の数日間の稽古はお休み。なんとか良くなったものの、その日をきっかけに僕の中の責任感とプレッシャーの糸がプツンと切れてしまいました。


朝学校に行く時間に起きれなくなり、毎日身体にだるさを感じるようになりました。学校を休みがちになり、次第に道場の稽古にも行けなくなりました。今まで学校も稽古もほとんど休まず行っていただけに、休んでいる自分が嫌になり、自分を攻め、精神的にも大きく崩れていってしまいました。

それからずっと家にいる時間が続きました。心の状態が不安定だった自分を学校に連れていこうとする母親に当たり、物に当たり、自分だけでなく家族にも迷惑をかけていました。


家にいる日が続けば続くほど、外に出ることが怖くなり、引きこもりのような状態になっていきました。一日でも早く元の生活に復帰させようとしていた母親や周りの人たちも、僕に休みが必要であることを理解し、それ以上プレッシャーをかけることはしなくなりました。

今振り返れば、僕が休んでいる期間、多くの人に助けてもらっていました。小学校の先生や道場の先生、仲間、親戚や家族。たくさんの人がずっと待っていてくれました。


僕が復帰するきっかけになったのは小学6年生の春。道場では小学生の最上学年になり、キャプテンを決めなければいけませんでした。道場で同級生と集まり、話し合いをしました。

学年をまとめてきたのは自分だったので、流れ的には僕がキャプテンをやるのが普通なのですが、一年間休んでいたこともあり、自分もメンバーもその部分を心配していました。

「僕がキャプテンをやります。」先生に伝えたこの言葉で、僕の中で覚悟が決まり、それが道場の稽古と学校に復帰するきっかけになりました。

体調の不安もありましたが、小学生のキャプテンという自覚がそれを上回り、とにかく必死にやっているうちに、その不安はなくなっていきました。


小学6年生の一年間はとにかく道場をまとめることに必死の一年間でした。稽古中は周りに声をかけ、チームを引っ張っていけるように誰よりも一生懸命動きました。

大会では勝てない時期も長く続き、思い通りにいかないことが多かったですが、外に出ることもできなかったところから一年。学校も剣道も全力で頑張ることができるところまでになり、充実した一年間でした。



第3章 責任感と勝てない苦しさ(中学生)


小学生キャプテンとしての役割を終え、中学校に進学しました。僕が通う中学校には剣道部がなかったので、他の中学生メンバーは、部活をやってそのあと遅れて道場の稽古に参加する流れでしたが、僕は一年生のときから道場の稽古にスタートから参加していました。

中学生になってからのいちばんの挫折。それは周りのみんなの背が伸び、身体ができてくる中、僕の身体はずっと小さいままだったことです。当時の写真を見返すと、同級生の仲間より頭2つ分くらい小さいほどの身長でした。


小学生のときは大会でも勝てることが多かったのに、だんだんとパワーやスピードの差が大きくなっていって、勝てない時期に入りました。稽古は頑張っているのに、周りのメンバーにも勝つことができなくなり、苦しい時期が続きました。

中学2年生になって、同級生が中学生の選手に選ばれ始める中、僕が選手に入ることはありませんでした。Bチームとして試合に出たり、メンバーの応援のためだけに県外についていったり。「悔しいけど、仕方ない」という気持ちが自分の中に残り続けました。


中学2年生の秋ごろ。ひとつ上の先輩たちは最後の大会を終えて引退し、自分たちが道場の最上学年になりました。再びキャプテンを決めるとき、先輩たちの指名で僕がキャプテンをやることになりました。僕よりも強いメンバーはいましたが、それでも学年のまとめ役をしていたのは僕だったのです。

小学6年生のときにもキャプテンは経験していますが、道場全体のまとめ役である中学生のキャプテンが背負う責任感はさらに大きいものでした。相変わらず身体はずっと小さいままで、試合でも勝てない選手でしたが、道場のメンバーを引っ張っていくために誰よりも声を出しました。

稽古では自分の稽古をやりながらも、常に周りに注意を払って、声をかけに行ったり、全体に指示を出したり、とにかく必死に動き続けていました。


迎えた夏の全国大会。僕は団体戦の選手として日本武道館の舞台に立ちました。トーナメントには予選を勝ち抜いた強豪チームがズラリ。厳しい戦いになることはわかっていました。

前日に僕の道場の小学生チームが大躍進で全国3位まで勝ち上がったこともあり、勢いを感じる反面、負けられないという相当なプレッシャーも感じていました。


いよいよ大会本番。一試合一試合が厳しい戦いでしたが、なんとか粘り強く勝ち進んでいきました。キャプテンである僕はこの大会でも苦戦していましたが、チームのメンバーを必死で応援し、試合前には円陣を組んでチームを鼓舞し、最終的には全国ベスト16まで勝ち上がることができました。

さらに上位に行きたかった悔しさはありましたが、勝てないキャプテンである僕を他のメンバーがカバーしてくれて、ここまで勝ち上がることができたことに「必死に頑張ってきてよかった」という気持ちになりました。



第4章 先生としてのキャプテン(高校生)


中学生までは毎日剣道のことだけを考えていたし、僕の生活の軸にあるものは確実に剣道でした。稽古がない日は少しでも体力を回復させるために家で休むことを選択するような日々でした。

中学3年生の春頃までは剣道で高校に進学することも考えていましたが、試合に勝てない時期が続いたために、剣道の道を選択するのはやめるという決断をしました。

中学生のときは毎週塾に通って勉強もしていました。きっちりした性格だった僕は、剣道のせいで勉強が疎かになるのは許せませんでした。その自分に対するプレッシャーのおかげで、剣道に力を入れながらも、勉強もきちんとやっていたと思います。


剣道で得た経験のおかげで、ハキハキ喋る完璧な面接試験を決め、地元の進学校に推薦入学。中学校に部活がなかったこともあり、剣道部に対する憧れのようなものもあって迷わず剣道部に入部しました。

しかし僕の進学した高校は、とりわけ剣道が強いわけでもない普通の進学校。中学生まで本気で剣道をやってきた僕にとっては緩すぎる環境でした。

1年生から選手に選ばれるもなかなか勝てずに、モヤモヤした気持ちで稽古を続けていました。2年生のときも、もちろん学年が上の3年生が部活をまとめていたのですが、これまでキャプテンも経験していただけに「自分ならもっと上手くできる」という気持ちがあり、先輩に対抗したり、気持ちの入らない稽古をしていたときもありました。


そして迎えた3年生。先輩たちからキャプテンに指名され、いよいよ自分の思うようにできる!という強い気持ちで部活を始めました。その年の目標は「男子女子揃って団体戦県大会出場」でした。

ここ数年間は県大会に出場することが全くなかったような学校だったので「男女アベックで県大会出場」はかなり高い目標でした。

過去に実績のある選手がいるわけでもない。それに顧問の先生は剣道未経験者でした。外部指導の先生が土曜日の稽古に来てくれるだけ。全て自分たちでやる必要がありました。


でも僕には自信がありました。「これまで学んできたことを全てここに出し切れば絶対にできる…!」小学2年生のときから学んできたこと全て、稽古法、稽古や試合の反省を書く剣道ノート、ミーティングなどに加え、中学時代のメンバーの一人が、部活内で取り組んでいた"目標管理シート"を部内で実践しました。

そしてもう一つやったこと。それは「先生になること」でした。指導者がいない稽古で、僕が自分のために稽古をするよりも、自分が指導者の立場に立って稽古を仕切ったり、指導した方が、最終的に団体戦で勝つためには効率がいいと考えたからです。

もちろん途中で稽古に参加することもありましたが、チームの仲間を強くするために、僕はキャプテン兼監督の立場で1年間を過ごしました。キャプテンとしてチームを引っ張ると同時に、監督として稽古の指導をしました。


団体戦での戦い方は徹底して「大将につなぐ試合運び」をテーマにしました。男子チームは自分、女子チームは一つ学年が下の2年生が大将だったので、そこまでつなぐ試合展開をテーマに何度も練習試合を繰り返しました。

その結果、秋に行われた選抜予選、春に行われたインターハイ予選の両大会で「男子女子揃って県大会出場」を達成することができました。県大会では結果を残すことができませんでしたが、全く無名の剣道部が、強豪チームとも戦えるチームに変わったのです。


今まで剣道は僕の中で苦しいものでした。もちろんそれを乗り越えて試合で勝った時の喜びはありましたが、それでも僕の中の剣道は、辛く苦しいものでした。しかし剣道で勝負することを諦めたはずの進学先で、剣道が楽しいものに変わりました。

でもこの感覚は、小学2年生からの経験なしでは絶対に味わえないものでした。苦しい時期も、勝てない時期も、必死に動いた時期も全てを乗り越えてきたからこそ、その全てを部活動で発揮できたと思っています。



第5章 剣道から離れて(大学入学-留学)


ここまで読んでくださった方は、僕のこれまでの人生が剣道中心だったことにお気づきだと思います。小学生の頃から剣道中心の生活をしてきました。

子供の頃から学校の友達と遊ぶことも、ゲームやマンガに熱中することもなく剣道をやってきました。いや、熱中する時間がありませんでした。


剣道に夢中だった僕は、大学受験に向けた準備から逃げてしまっていました。周りの友達がレベルの高い大学に挑戦していく中、僕は特に行きたい大学も見つからず、少し好きだった英語を勉強するために、名古屋外国語大学に入学しました。

大学に入学してから、今まで剣道のことしか考えてこなかった自分に、他のことをする時間が生まれました。もちろん英語の勉強もして、ファッションや芸能界など様々なものに興味を持ちました。

大学1年生のときから自分の興味を持ったことをSNSを使って発信していました。ファッションが好きだった頃は自分の洋服をファッションアプリで発信してみたり、芸能界に憧れを持った頃はライブ配信をしてみたりもしました。しかし、どれも自分の中でしっくり来ず、長続きしませんでした。


大学でも剣道部に所属していましたが、時間がなかなか取れなかった僕は剣道と少しだけ距離を置いていました。せっかく英語を勉強しているから留学に行きたいと思っていたのです。大学の留学制度の応募資格を得るためにずっと英語の勉強をしていました。

そして無事に応募条件を満たすことができ、8月からアメリカに留学することができています。留学先で何をするか考えたとき、いちばんに思い浮かんだのは剣道でした。「他のことは何もできないけれど、剣道ならばアメリカでも人と繋がることができる。」そう思った僕は、留学先の剣道部で再び剣道をすることにしました。


続く(いつか書き終えたい…。)

支援していただいたお金はYouTubeの活動資金として使わせていただきます。よければ支援お願いします!