「恐怖の谷」(コナン・ドイル著、延原謙訳、新潮文庫刊)
コナン・ドイルが描くシャーロックホームズ・シリーズの傑作長編。
ホームズ作品には4つの長編があるが、本作はその最後の4つ目の長編にあたる。小説の構成は「緋色の研究」や「四つの署名」と同じく二部構成で、第一部では事件発生と犯人確保まで、第二部では事件が起きるきっかけとなった物語が過去にさかのぼって描かれる。事件を単純な殺人事件や推理モノには終わらせず、背後に誰も予想できないような潜入作戦が隠されていたことが明らかにされ、最近流行りの言葉で言うならインテリジェンス小説とも評価することのできる、非常に興味深い作品である。
サセックス州北部にある小さな村で、屋敷の主が散弾銃で顔面を撃たれて殺されるという事件が発生。ホームズとワトソンが調査を進める中で、射殺された主人は米国カリフォルニアから移住してきた人物だということがわかり、生前「『恐怖の谷』からまだ抜け出せていない」と語っていたこともわかる。第一部は、ホームズの手腕により、真相を知るものとして意外な人物が身柄確保されたところで終了する。
第二部は事件より遡ること約12年(とは本文中には書かれていないが)、舞台はアメリカ合衆国。孤高の新参者マクマードは新しい土地に降り立ち、持ち前の度胸が地元の秘密組織に受け入れられ、すぐに頭角を現す。殺人と贋金づくりがバレそうになったため逃げてきたマクマードだが、彼を追うようにして顔見知りの警察官も現れる。組織の上司や仲間から信頼されるようになったマクマードは、徐々に組織の様々な活動に深く関わるようになるものの、組織の暗躍を阻止しようとする鉄道会社がピンカートン探偵局と契約して腕利きの探偵を組織に潜入させた、という衝撃的な情報がマクマードの耳に入る。
本作の中でピンカートン探偵局として描かれるこの会社は、アラン・ピンカートンがアメリカ合衆国で1850年に設立した実在の会社で、世界初の警備会社とも言われている。武装した社員を警備員や探偵として派遣するサービスで、その筋の人間の間では非常に有名な会社である。ピンカートン(探偵局だったか探偵社だったか)のエージェントは映画007シリーズにも登場するし、007で初めてピンカートンの名前を知ったという年配の日本人も多いようだ。ちなみに私の場合は、本作でピンカートンという会社を知ることになった。
余談だが、「ピンカートン」という名前自体は、世界第二位のグローバル警備会社セキュリタスの傘下で現在も存続している。本作や映画007の中で描かれたピンカートンのイメージと同じとは言えないだろうが、ホームズファンや007ファンには見逃せない事実ではないだろうか。
私がピンカートンを強調する理由は、本作の魅力そのものが、まさしくそのピンカートン探偵局から派遣された潜入捜査員の人物造形にあると考えるからである。ピンカートンを語らずして本作を語ることはできないだろう。
「ピンカートンって今でもこういう凄いことやってるのかなぁ」と思わず考えたくなってしまうのが、本作を読んだあとの率直な感想ではないだろうか。
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