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理由なき創作への情熱:劇場版「ルックバック」を視聴して感じたこと

先日、Amazonプライムで劇場版ルックバックが公開された。

原作の漫画は子どもから紹介されて読了済み。
前々から劇場版アニメがどんなものか気になっていた。
原作の持つ世界観、描写、特徴的なセリフを映画化した場合、一体どうなるんだろう?という素朴な疑問。

そう思っていたものの、忙しさにかまけて観る機会を逸していた。

そこで、週末に思い立って劇場版を観てみたのだが、合計3回ほど視聴して、3回とも泣いた。「なんで泣いてるの?」と子どもに突っ込まれるが、このシーンのアレはこういう解釈で…と説明するにも頭の整理が必要だ。

僕が感じた(解釈した)ルックバックについて、まとめておこうと思って、この記事を書いている。でも、数年後にもう一度視聴したら、根本的な捉え方は同じでも、また違った感覚になりそうな気もする。

あくまで2024年11月時点の解釈ということ。
(※同作品については、たくさんの方がレビューしている。誰かの意見に引っ張られると自分の感じたものが歪みそうなので、誰の意見も参考にしないで書いてみる。)

何のために描いているか

主人公の藤野がなぜ漫画を描き続けるのか。
漫画なんて書いても終わりがなくて、描くのがしんどいもの。
だから、漫画は読むだけの方がいい。

京本に理由を尋ねられる直前、こう答えていた藤野が漫画を描き続ける理由。僕はその理由を次の2つだと解釈した。

1つ目は、京本が自分を見ているから。

漫画でも、映画でも、主人公の背中を見続ける「京本視点」の描写が多い。例えば、藤野が振り返って彼女の手を引きながら、街の人混みを掻き分けていくシーン。

藤野は、常に、京本という自分よりも才能あふれる人間に背中を見られている。

誰よりも絵を描くことが上手いと思っていた鼻っぱし。それを、一人の(空間描写の)天才によって打ち砕かれる。藤野は、京本の才能を知り、一時期、漫画を描くことを諦めるわけだが、そんな自分の才能を脅かし、漫画への情熱を諦めさせた人間から「先生」と言われ、自分の行動を見られ続ける。

京本の前では、自分はいつまでも「先生」であり続けたい。
それが、藤野が漫画を描く理由その1。

2つ目は、ただ描きたいから(=自分の存在理由)。

自分が、その才能を畏怖した人間から、先生と崇められ、共に創作活動に勤しむ藤野。
彼女が、京本の前で先生であるためには、漫画を描かなければならない。

漫画を描くことを通してのみ、そこには藤野の明確な存在理由があり、それが証明された状態となっている。作品を通して世に問いたいテーマがあるとか、自分の作品を読んでくれるファンに何かを届けたいという高尚な理由から、漫画を描くことがスタートしたわけではない(と解釈)。

元々は、一人で漫画を描くことが自己の承認欲求を満たす行為だった。それが、京本との出会いを通じて、二人の創作活動に昇華し、漫画という表現方法を使って他者とつながりを保てる。たとえ、亡くなった京本ともつながりを持ち続けられる。

ただ描きたい。

これが、藤野が漫画を描く理由その2。

ちなみに、映画の中で「藤野ちゃんはどうして漫画を描くの?」という問いかけから、これまで彼女たちが漫画を描いてきたシーンが走馬灯のように展開されるが、劇場版でのここの描写は、胸を打つものが数多く詰まっていて、僕は何回観ても泣いてしまう泣きポイント。

拳銃を撃ってから弾丸を当てる

藤野は、京本の空間描写の才能を知ってから、「自分よりも絵が上手く描ける人間は許せない」と考え、毎日机に向かって努力する。

友達から遊びに誘われても、家族から漫画以外のことを勧められても、ただひたむきに描き続ける。

彼女は、敵愾心を力に変えて努力する才能を持っている。

それでも、京本の画力を越えられないと感じ、一時的に漫画を描くことを諦めてしまう。描くことで味わう初めての挫折。

そんな藤野が、京本の自宅を訪れた際に「先生」と言われる。そして、漫画を描くことをなぜやめたのか?自分は昔から先生のファンの一人で楽しみにしていたと明かされた際、次のように答える。

「今、出版社に応募用の新しい漫画を創作中」と。

これは
実際に創作活動は止めてしまっている。

でも、自分が畏怖した存在に問いかけられた際、「京本が理由で漫画を諦めた」などと死んでも口にできない。京本からの問いかけは、藤野に対する一番触れて欲しくない干渉であって、自尊心がぼろぼろにされる。

そこで咄嗟に出たのが上の言葉。

だが、藤野はこの「嘘」をウソではなく、自身の想いの力で、本当のものにしてしまう。

これは起業家精神に通じるものがある。
プランを考えることは誰でもできるが、行動できる人は少ない。

皆、リスクを考え、状況を理解し、できない理由を探してしまう。
的に弾丸を当てるにはどうしたらいいか?

答えは簡単で、
拳銃を撃ってから、その弾丸が当たるように軌道修正する。

最初は嘘でもいいわけで、それが現実のものになるように、行動ができる藤野もまた一角の人物ということ。

他人の意思は変えられない

物語の後半では2つの世界線が展開される。

1つは、藤野が京本を部屋から連れ出し、一緒に創作活動をする世界。
もう1つは、藤野が京本と出会わずに、それぞれ別の道を歩む世界。

京本の死を知り、藤野は、
「自分が彼女を部屋から連れ出したことが原因で、殺人鬼に襲われてしまった。京本の人生を狂わせたのは自分の身勝手な行動だ」と、苦悩する。

でも、本当に藤野が原因なのか?

答えはNoで、仮に世界線が違ったとしても、京本は絵を描くことをやめることなく、むしろ、もっと上手く描きたいという思いがなくなることはない。

そして、一人で出かけた書店にて、造形・美術の本を手に取り、その絵を見ることで、もっと絵を上手く描きたいと強く思う。その後は、藤野と出会った世界線と同様に、AO入試を受け、美術大学に進学し、殺人鬼が侵入してきたあの日を迎える。

つまり、どちらの世界線でも結果は変えられない

結果が変えられないというのは、元を辿れば「京本の意思が変わらない」ことを意味している。その人の、深く内面に突き刺さった強固な意思を、外側から働きかけて、辞めさせたり、別のものにすることは到底不可能だ。

スキップするシーンがゾワっとする

京本の自宅を訪れ、先生と言われた藤野。
彼女が家に帰る途中、おかしな格好でスキップするようなシーンがある。

漫画本だと1ページに満たない描写だが、劇場版では1分半程度の尺が割かれていて、雨があがった田舎の農道を、彼女が、ただ家に向かって足早に移動する様子が描かれている。

娘に聞いたのだが、このシーンは劇場版の押山監督が、編集スタジオに2ヶ月間篭って、一枚一枚手書きで構成と作画を行った有名な描写らしい。

漫画本を読まずに、劇場版だけを見ている人がいたら、ぜひ両方を見てみることをおすすめしたい。それだけ、このシーンを通して表現しているものが尊く感じられる。それは、藤野をこれからの創作活動に向かわせるもの、彼女の前傾姿勢の表れであって、何よりも京本が原因でボロボロにされた自己の承認欲求が、一気に満たされ解放されていく、そんな情景を音と光で表現している。

僕はゾワっとしたこのシーンに触れ、藤野の今の気持ちを思うと、どうしても涙が出てしまう。

まとめ

劇場版のルックバックは、ただの漫画の映像化ではない。
創作活動における「描きたい」という衝動を、映像表現を使ってリアルに描き出している。理由や目的を超えた純粋な「描くことへの情熱」は、藤野の姿勢を通して深く心に刻まれる。

そこに視聴者の胸を打つメッセージが込められている気がして、数年後にもう一度、改めて見てみようと思っている。

その時には、また別の味わいがあるかもしれない。

P.S. 娘に藤野と京本が描いた「シャークキック」という漫画。この本が人気になったのは、藤野と京本どっちがいたからだと思う?という質問をした。

答えは「藤野」だった。
理由は、上に書いた拳銃の話と同様で、彼女が行動したから。

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