[一首評]かなしみは音に紛れて泡沫になりゆく ぼくはぼくはぼくは

かなしみは音に紛れて泡沫になりゆく ぼくはぼくはぼくは
/酒田現「灯籠の海〜アルバム「花と水飴、最終電車」より〜」ネットプリント「釦」より

「花と水飴、最終電車」はボカロPであるn-bunaのアルバムであり、この一首が収録されている酒田の連作はこのアルバムへのオマージュとなっている。「ぼくはぼくはぼくは」はその中の一曲「ウミユリ海底譚」の歌詞であり、この一首は「ウミユリ海底譚」の本歌取りとして作られたものであろう。
「ウミユリ海底譚」をひと言で説明するのは難しい。作中主体は「君」に対して混乱した感情を抱いているように思われるからだ。

夢の跡が 君の嗚咽が
吐き出せない泡沫の庭の隅を
光の泳ぐ空にさざめく 文字の奥
波の狭間で 君が遠のいただけ
もっと縋ってよ 知ってしまうから
僕の歌を笑わないで
取り去ってしまってよ行ってしまうなら
君はここに戻らないで
空中散歩と四拍子
僕は 僕は 僕は
そっと塞いでよもういらないから
そんな嘘を歌わないで
逆らってしまってよこんな世界なら
君はここで止まらないで
もっと縋ってよ
もういらないからさ
ねぇ
そっと塞いでよ
僕らの曖昧な愛で
「なんて」
待って わかってよ 何でもないから
僕の夢を笑わないで

以上n-buna「ウミユリ海底譚」(表記はSpotifyで表示される歌詞に従った)

主体は「君」を突き放したい、突き放されたいという思いと、振り切れない「君」への執着で引き裂かれているように思われる。それに対する混乱した詠嘆が「僕は 僕は 僕は」である。
酒田の一首にもこの文脈は引き継がれているのだろうか? そうは思われない。作中主体が抱いている感情は「かなしみ」であり混乱ではない。ただ、「ぼくはぼくはぼくは」に含まれる、感情の前に立ち尽くすような含みはあると読んだ。

TANKASONICという企画があった。音楽アーティストへのオマージュとしての連作を集めたネットプリント企画である。ここでは当然「音楽からの本歌取り」がなされていた。残念なことにネットプリントの現物を紛失したので、TANKASONICに掲載されている拙作を引いて論を進めたい。

プールサイドにあなたの嘔吐照り映えてすこしくらいは優しくなりたい
/鈴木えて「銀の目配せ」

「すこしくらいは優しくなりたい」が羊文学「Step」の歌詞からの引用である。ここでは歌詞は地の文として歌の中に組み込まれ、音楽性は剥ぎ取られている。

これに対し、酒田の「ぼくはぼくはぼくは」の音楽性は保存されている。なぜなら「ぼくはぼくはぼくは」は短歌的な作中主体の心情であると同時に、流れている音楽でもあるからだ。「かなしみ」を紛らわす「音」というのは、「ぼくはぼくはぼくは」が歌詞であり、さらにこの連作が「花と水飴、最終電車」という音楽アルバムに寄せられていると明記されている以上、「ウミユリ海底譚」を指しているという推測が踏み込みすぎだとは思われない。作中主体は「ウミユリ海底譚」を聴いており、それに紛れて「かなしみ」が「泡沫」になってゆく。

作中主体が音楽を聴いているという前提を立てることで、歌詞の引用に作中主体の心情と実際の音楽性を重ね合わせることが可能になる。音楽を本歌取りするという難題への回答として成功していると言えるだろう。

この一首はネットプリント「釦」に掲載されている。
セブンイレブン:47712941(~9/3 23:59)
ローソン・ファミマ:GL4KKP95XX(~9/4 18:00)

参考
n-buna「ウミユリ海底譚」
https://www.youtube.com/watch?v=7JANm3jOb2k
https://www.nicovideo.jp/watch/sm22960446
https://open.spotify.com/track/7d66NXUtZmUpHKYMgk9Q77?si=P7q1kaIDS6OPO6J0OogPdg

羊文学「Step」
https://www.youtube.com/watch?v=HC84nW9mpoo
https://open.spotify.com/track/2kpudvsh3rN59FocDP21RE?si=GZLw-EK4QvGp1dFYcP4yWQ

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