YOASOBI『アイドル』のラップのよさをどう擁護するか?
YOASOBI『アイドル』のラップのよさを擁護しようとして失敗している人が多く見られたので、次は成功してほしいという思いを込めて文章を書きま
す。好きなものは上手に擁護できたほうが気持ちがいい。
前置き
Sagishiさんの書いた『アイドル』への批評を読みました。いっぱい文章を書いていて偉いですね。捨てアカで突撃して短文の罵倒を投げつけていく人はインターネットから離れて家族や友人とおいしいものを食べてください。
まずSagishiさんの『アイドル』批評に対する感想です。ラップパートのできの悪さをうまく示せていないと思いました。「ラップのビートに対するアプローチに問題がある」「ラップがビートに乗れていない」と言っていますが、そこは重要なところなのでもっと具体的に示さないと文章として説得力に欠けます。聞けばわかるではダメで、どこに注目して聞いたらビートに乗れていないとわかるか示すべきです。声の幼さに関連付けての批評に関しては同意しません。むしろ、そういうディレクションならもっと変な声にすればいいのにと思います。
人の意見にただ乗りするのも居心地が悪いので、ぼく自身の『アイドル』日本語原曲への短評も書いておきます。英語版は関知しない。Sagishiさんは「全体の構成などの工夫はよいが、ラップパートは問題がある」と主張していますが、ぼくは逆に「楽曲の個別のパートにそれほど大きな失点があるとは思わないが、楽曲の構成については不満がある」と主張します。イントロのK-POPから援用したようなトラップの三連フロウを聞いたとき、チャレンジしてるなあと好感を持ったのですが、サビまで聞くと上に転調して馴染みのある感じになったのでちょっとがっかりしました。その後のサビとラップを交互に行ったり来たりする展開については「様式の異なる音楽からの影響を一つの曲の中で統合するやり方としてそれでいいのか?」という疑問を感じたので、あまり楽しめていません。様式の異なるパートを交互に繰り出すことを「異なる様式を上手に折衷している」と評価するのにはかなりの抵抗があります。あと急展開が多くて楽曲への没入感が阻害されます。これはぼくがおじさんだからかもしれない。まれにアニメのOPソングに対して「TVsizeの方がフルよりいいな」と思うことがあるんですが、ぼくにとって『アイドル』はそういう曲でした。
『アイドル』の批評に対する反応も追ってみました。Sagishiさんは「全体としてはいい曲、ただしラップパートはひどい。あと英語詞は完全にダメ」と評しているのですが、後半だけ拾い読みして全面的にひどい曲だと主張していると勘違いしている人が多数います。好きな気持ちに水を差されたと怒っている人もいますね。いつまでもそういう純粋な気持ちで作品に向き合ってほしい。あとチャートアクションのよさを持ち出して正当化しようとするのはやめてください。もう深夜アニメのDVDの売り上げでけんかする時代は終わったものだと思っていたのに……。
もちろん、ちゃんと楽曲の内容を踏まえたうえで擁護しようとしている人もたくさんいます。まとまった反論の例はこちら。
いっぱい文章を書いていて偉いですね。いろんなラップに即して『アイドル』のラップもそう悪いものではないという話をしていて参考になります。話はそれるんですが、ちゃおさんは「ヒット曲はすでに十分に価値づけられているから、批評はその価値を正当化するだけ」という立場なようで、批評に価値づけが必須ととらえているぼくやSagishiさんの立場とは異なります。これはちょっといじわるなお願いなのですが、
こういうことを書くなら、試しに「流行っている悪い曲」について一つ例を挙げてみてほしいです。「大体がいいもの」というなら、少ないながらも悪いものがあるはずだし、その例を挙げられないなら「流行っている音楽はすべていいものだ」と書くべきでしょう。この「流行っている音楽はすべていいものだ」とする立場は一見奇異に見えますが、ヒット曲の批評に価値づけは不要と考える人の一部は、実際にこれに近い立場をとっているはずです。ポップミュージックにおいてキュレーターは大衆であり、批評家は大衆がなした評価に基づいて楽曲を記述、分析、文脈付けする。品定めは批評家の仕事ではないというわけです。ぼく自身はその立場を取りませんが、同じように考える人は少なくないと思います。
そろそろ本題に入ります。『アイドル』のラップへの反応を読んでいると、ふたつのパターンの擁護をよく目にしました。一つはSagishiさんはカテゴリーの分類ミスをしていて楽曲を不当に評価しているとするもの。もう一つは、作者の意図を低く見積もることによって、『アイドル』のラップを成功した表現と見なすものです。これらはどちらもうまくいっていない部分が多いように見えました。どういう擁護なのか、なぜうまくいっていないと判断したのかを書いておきます。
1. カテゴリーの分類ミス
ある人がオムレツを食べて「乳臭い生焼けの玉子焼き」と評したとしたら、その人はオムレツを誤解していると見ていいでしょう。オムレツを玉子焼きの基準で評価してもうまくいかない。
同じように「Sagishiさんは『アイドル』の属するカテゴリーを見誤っている」というのが、この手の主張です。
Sagishiさんは『アイドル』のラップパートをラップとして低く評価しています。このカテゴリーの分類が間違っているとしたら「『アイドル』にラップは含まれていない。だからラップとして評価するはおかしい」と主張できますね。しかし、これについてはすでにSagishiさんが追記で反論しています。
これはSagishiさんの言う通りです。まずイントロの歌詞で韻を踏んでいるし、トラップ系の三連フロウも使っていて、これをラップでないとするには無理があります。『アイドル』にはラップの要素が含まれるので、これをラップの観点から評価することは正当です。
カテゴリーの分類ミスに基づく擁護は他にもあります。
「『アイドル』はJ-POP (あるいはアニソン、アイドルソング、EDM)なので、ヒップホップを基準とするようなラップの評価は不当だ」
音楽を評価するための道具の中には狭いカテゴリーに対して特殊化された道具もあれば、広く音楽一般に適用できる汎用的な道具もあります。汎用的な道具として知られているのが、例えばメロディ、ハーモニー、リズム、楽器の奏法の分析、歌ならば歌詞の意味や押韻の構造も挙げられます。Sagishiさんのラップに対する批判は「声が幼い」「ラップがビートに乗れていない」というものでした。このうち「声が幼い」に関しては、カテゴリーの分類ミスに基づく反論にはかなりの説得力があります。アニソン、ボカロ、声優ソング、アイドルソングと比べれば、声の幼さはマイナスポイントではないし、実際『アイドル』はそういう文脈の曲だからです。
ではもう一つの批判「ラップがビートに乗れていない」はどうでしょう。「ラップはビートにどうアプローチするか?」という評価基準がヒップホップに対して特化した基準かというと、それは違います。楽曲にラップが含まれているなら、ラップのビートに対するアプローチは楽曲を評価するうえでの普遍的な基準の一つです。「そんなことに注目してラップ聞いてない!」という人もいるでしょうが、受け入れてください。ぼくも曲聞くとき歌詞とかぜんぜん聞いてないけど、歌詞が楽曲の評価対象になることは受け入れています。ラップのビートに対するアプローチは重要な問題なので、もしそのやり方に悪い点があるなら、そのラップは「下手」「つたない」と評価されてもしょうがないのです。だからもし『アイドル』のラップが「ビートに乗れていない」なら、それを「J-POP (あるいはアニソン、アイドルソング、EDM)だからこれでいい」で擁護するのは無理があります。こちらについてはカテゴリーの分類ミスに基づく反論は失敗しています。
しかし最初に述べたように、Sagishiさんの文章がラップのビートアプローチに対する問題点を上手に説明できているかというと、ぼくはそうは思いませんでした。そういうわけで『アイドル』のラップを擁護したいみなさんには「ラップはビートにノッてるだろうが!ノリノリだろうが!」という方向で反論してほしいと思います。いちばん大事なことですが反論はSagishiさんにしてくださいね。お願いします。ぼくは無関係です。
2. 作者の意図を低く見積もる
わたしたち人間は日常生活において他者の意図を割と正確に推し量れます。もちろんたまには皮肉を見過ごしたり、考えすぎで悪いように取ってしまったりしますが、銀行にいる人間がみんな強盗に見えることはないし、繁華街で抜身の包丁を振り回す人間を料理人と勘違いすることもない。日常的にやっている他者の意図を推測する行為を、芸術作品が相手になったとたんにできなくると考える特別な理由はありません。よく観察し、証拠をそろえて考えてみれば、作者の意図を推し量ることは可能です。作者の意図がわかれば、作品に対する法外な見方を排除して、妥当な見方を限定することができます。
Sagishiさんの『アイドル』への批評に対する反応としてしばしば見られたのが、作者の意図を低く見積もることで作者は意図を達成しているとみなす主張です。
「たしかに『アイドル』のラップは下手だ。しかしこの曲の作者は下手なラップを意図して表現している。それが実際に下手なラップに聞こえるのは作者の狙い通りだ。よって「ラップが下手」を欠点として挙げる批評は的外れだ」
YOASOBIはコンポーザーのAyaseとボーカルのikuraの二人組ユニットです。ラップについての批評なので、コンポーザーとボーカルはどちらも重要ですから、二人まとめてYOASOBIが作者ということにしましょう。作者の意図を低く見積もる批評の問題点は、楽曲のなかで行われていることのすべてを正当化できることです。すべてとは文字通りにすべてです。
一般的に楽曲のクオリティーを下げる方向に働くと思われる特徴について考えてみましょう。例えば、ボーカルが音を外す、ギターのカッティングのリズムがよれている、チューニングが甘い、ミックスがごちゃついている、キックの音がしょぼい、歌詞がありきたりすぎる……などなど。作者の意図を低く見積もれば、こうした欠点はすべて美点として擁護できます。ボーカルが音を外した? それはわざと外しているんだ。カッティングのリズムのよれ、狙ってやっている。チューニングが甘い、そういうチューニングなんだ。分離の悪いミックスもすばらしい。歌詞がありきたりだって? 皮肉だよ。
こういうことをやりはじめると、この世に出来の悪い芸術は存在しなくなります。この事態を回避するにはどうすればいいでしょう? 解決策の一つは作者の意図を無視して目の前の作品から得られる体験だけを問題にすることです。しかし、作者の意図をまったく考慮しない批評は多くの人の批評の実践からかけ離れているし、それをすると今度は別の問題が浮上します。作品の独創性や歴史的な重要性を考慮した批評が難しくなるのです。
ほかの解決策もあります。普通に考える。それを第一の選択にしてみましょう。ボーカルが音を外すのは、普通に考えて、ボーカルが下手だからです。カッティングのリズムがよれるのは、普通に考えて、ギタリストのミスです。そしてラップが下手だとしたら、普通に考えて、ラッパーのスキルが低いからです。そうした普通の見方に抵抗するなら、なにか根拠が必要です。それは作品のなかに埋め込まれていることもあるし、作者がインタビューなどで証言していることもあります。
「ラップの下手さは作者の狙い通りだ」とする主張には根拠が必要です。どんな主張にも根拠は必要ですが、とくにこうした主張にはしっかりした根拠が必要だと個人的に考えています。わざと下手なラップを表現することを、普通はしない。普通の見方は作品を評価するうえで多くの場合に有用だから普通の見方になっているわけで、それを退けるには相応の強い根拠が必要です。「ラップの下手さは作者の狙い通りだ」とする主張にちゃんと説得力をもたせる高めのハードルをクリアしていると思った例は、探した限りだと見つかりませんでした。もしもそれができたという人は、Sagishiさんにその熱い気持ちをぶつけてください。ぼくはこの文章書いているうちに疲れちゃったから相手ができないし、別にYOASOBIの曲が大好きというわけでもないから『アイドル』のことをずっと考えていたくない。
最後に申し添えておくと、ぼくは『推しの子』の原作もアニメも見ていないし、YOASOBIもタイアップ曲と『夜に駆ける』でしか知りません。ラップにはほぼ興味がない。そんな人の書いた批評はまったく当てにならないと思った漫画ファン、アニメファン、音楽ファンのあなたは正しい。作品に対して愛のあるあなたはこんな内容の薄い書き散らしよりもっといい文章を書いてください。終わります。