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「言葉で世界は変えられるのか」って本気で考えてみた日のこと

初めから
解り合えや
しないことを
知って僕らは
何度も話す

他人の言葉に救われたり、他人の言葉で一生癒えない傷を負ったりする。
人を動かすことも、人を縛りつけることもできる「言葉」は、なんて素晴らしくて、なんて恐いものなんだろう。
僕は作家のはしくれとして、いつも執筆のたび、そんな恐怖に手を震わせます。

「歌姫ってなんなん」
「霊長類最強女子ってなんなん」
他人が勝手に与えた言葉に縛られていた人たちが、その疑問や不満をさらに言葉にしたことで、今、多くの人が動き、考え、そして世界は少しだけ形を変えようとしています。

言葉で世界は変えられるのか

エッセイ『ゲイだけど質問ある?』を講談社から出版した記念として、トークイベントを2019年1月12日(土)に下北沢のB&Bで開催しました。
トークのゲストにお招きしたのは、前々からお会いしたかったカツセマサヒコさん。

数年前から、なんだかTwitterで素敵な言葉をつぶやいてるお兄さんがいるなと思っていて、気づけばカツセさんの新しいツイートをいつも心待ちにしていました。特に近年では、WEB業界の知人でカツセさんの名前を知らない人はいなかったり、なんか面白そうな記事がバズってると、著者がカツセさんだったりする。

そして名付けたイベントタイトルが『言葉で世界は変えられるのか』。

25歳で会社員を辞めて、暗中模索で作家業を始めた頃は、よくそういうことを考えていたな、と思い出します。
っていうか、帰省したとき、地元の友人に「お前が昔『僕は言葉で世界を変えたいんだ!』ってドヤ顔してたの覚えてるよ」って言われた。
考えてただけじゃなかった。ドヤ顔で豪語してた。恥ずかしい!

「世界」にもいろんな意味があって、その範囲も、大きさも、捉え方は人それぞれ。僕は、世界をどんなふうに変えたかったかというと。
ひとつは、こんなにも面白いのにマイナーな『短歌』という文化が、もっとメジャーカルチャーになる世界。
もうひとつは、僕のような同性愛者が社会でもっと受け入れられる世界。

もちろん世界はそう簡単に変わるはずもなく、30代の今では熱い夢も気軽に語らなくなって、目の前の仕事を毎日こなすのに精一杯。
でも、自分のイベントのときくらい久々にそんなことを語ってみてもいいんじゃないか、優しそうで同い年のカツセさんだったらそんな話に付き合ってくれるんじゃないか、と思ったんです。

見ている世界は、誰かの言葉で簡単に変わる

おっさんずラブ、同性婚、生産性問題……少なくとも僕がこれまで生きてきた中で、2018年ほどLGBTの話題がテレビやWEBで取り上げられた1年はありませんでした。

けれど、僕が常々思っていること。
LGBTって、難しい。
性質とか概念とか、知らなきゃいけないことがたくさんある。中途半端に知っているだけだと、軽々しく話題にもできない。LGBTの知り合いがいなくて、ニュースを見ただけで知ってるつもりになってる人だって多い。
ゲイの僕でさえ難しいと感じるのだから、「ああ、またLGBTの話題か」と異性愛者が腫れ物に触るようになるのも当然だと思う。

同性愛の話題を、もっと楽しくカジュアルに発信できれば、きっとみんなが興味を持ってくれるんじゃないか。友達同士のおしゃべりみたいに。飲み会のノリみたいに。
エッセイ『ゲイだけど質問ある?』は、そんな思いでWEB連載を企画して、書籍になった一冊です。

書籍の感想をカツセマサヒコさんに伺うと、まさに「ある程度は同性愛について知ってるつもりだったけど、まだまだ知らないことがいっぱいあった。セクシュアリティについても、短歌についても、恋愛本としても秀逸!」と褒めてもらいました。てへへ。

カツセさんの評で特に興味深かったのは、第2章の一節『男女の恋愛と違うところは?』について。
「男性脳、女性脳、なんて言うように、ゲイカップルはどちらかが女性の役割を担うのかと思っていたんですけど、どちらもあくまで男性なんですね。男女だと、趣味だったり、思考の傾向なんかのギャップで揉めることがあるけど、ゲイカップルは男友達のようなノリで付き合えて、たとえ揉めても男性同士ならではの建設的なディスカッションができるってことですよね。それっていいな、って思った。羨ましいと感じる人はたくさんいるんじゃないかな

確かに、よく誤解されるけれど、同性愛と性同一性はまったく別の話で、男性に恋愛感情を抱くからって女性的、というわけじゃない。その誤解は、トランスジェンダー(LGBTのT)と混同されるためだと思う。

同性愛について「別にいいんじゃない?」とは感じても「羨ましい」と感じたことのある人は、きっと少ない。だからカツセさんの評は、とても新鮮でした。
これも、ある意味では「僕の言葉によって、カツセマサヒコという一人の男性が見ている世界を変えた」と言えるかもしれません。

自分の言葉が、誰かにとっての重荷になる

言葉は、人を救いもするし、突き放しもする。
僕は同性愛者を自覚したのがとても早くて、自分は他の男の子と何か違うっていう漠然とした違和感が幼い頃からあったわけだけど、小学生のときに「同性愛者」「ゲイ」という言葉を知って、とても安心したのを覚えています。
自分が何者なのかが、やっと明確に理解できたから。

かたや、誰かが勝手に言い出した「歌姫」「霊長類最強女子」という言葉に悩まされる人たちもいる。
親から「お前はバカな子だ」と言われて育つ子どもは、大人になってからもその劣等感を引きずることになる。

以前、週一で中目黒にあるバーのマスターをやっていました。
せっかくゲイだと隠さず生活しているので、異性愛者も同性愛者も、セクシュアリティにかかわらず交流できるような場所にしたいとの思いから「SUZUKAKE BAR」と銘打って、好評をいただいていました。

ところが、「ゲイバーやってるんだね!ゲイバー!ゲイバー!」と言ってくる友人がいた。
東京でゲイバーに行きたければ、新宿二丁目に行けばいい。僕は、まだゲイバーに行く勇気がないようなゲイの子が飲みに来れたり、ゲイバーにでも行かない限りゲイと出会わなかったような人が来れたりする場所を作りたかった。
それなのに、意図しない「ゲイバー」というカテゴリーを付けられて、とても嫌だった。僕が来て欲しいと思う人たちが、そのせいで来れなくなってしまう。ゲイが働くバーだから「ゲイバー」なんて、そんな安直な問題ではなくて。
よりによって、それは普段とても仲良くしている友人の言葉だった。
「僕はここをゲイバーにしているつもりはない」って、角が立たないように説得するのにとても苦労した。

誰かのアイデンティティを、他人が勝手な言葉で書き換えるのは「暴力」だと思う。
歌姫とか、霊長類最強女子とか、ナントカ女子とか、ナントカ王子とか、他人はおもしろおかしく言葉でカテゴライズするけれど、たとえそれが尊敬のつもりの言葉であっても、本人にとってはひどい重荷になっていることもあると、我々はそろそろ気づくべきなのかもしれません。

LGBTという言葉は、日本に必要か

ゲイである僕でさえ、いつのまに!と思うほど急激なスピードで、「LGBT」というキーワードが頻繁に日本国内のニュースに登場するようになりました。

けれど先述の通り、僕が日頃感じてやまないのは、LGBTという言葉が日本人には難しすぎる、ということ。
日本語じゃないしね、そもそも。略されてるしね、4つも。

レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー。
カタカナ語の一つひとつを理解していくのだって難しいのに、4つも一緒くたになっているものだから、異性愛者のみんなが理解しようにもハードルが高すぎると思うんです。

厳密には、レズビアン・ゲイ・バイセクシャルが「性的指向」、トランスジェンダーは「性同一性障害」で、よく混同されるけれど、両者は別物。
え。別物なのに、なんで一緒に括られてるの?
そりゃあ、混同されちゃうのも無理はない。
(別物なのに一緒に括られているのには歴史的背景があるのだけど、記事の趣旨から外れてしまうのでここでは割愛しますね)

さらに、実際のところLGBTだけでは収まらない性の形が、この世にはもっとたくさん存在しているので、「LGBTQ」あるいは「LGBTQIA」とも言われるようになってきました。
(これまたひとつずつ説明したいのは山々だけど、やはり趣旨から外れるのでやむなく割愛させてください)

ここまで来ると、正直もう、カオス。
はい順番!ちゃんと縦に並んで!一人ずつ入ってね!って言ってるのにみんな横並びになるもんだから結局誰も入れない、みたいな感じ。
もはやパニック。
本来、理解してもらわなきゃいけないはずの、異性愛者のみんなは大混乱です。
これじゃあ本末転倒。
理解してもらおうとして始まったことなのに、複雑になりすぎて異性愛者のみんなは置いてけぼりです。

もちろん、これまで語られなかったセクシュアリティが登場して、性が多様化するのは、素晴らしいこと。僕が幼少期に自分が「ゲイ」だと理解できて、言葉に救われたようにね。
けれど、実際のところ、ゲイの僕でさえ「LGBT」という言葉を足かせのように感じることがあります。

一括りにされているものだから、レズビアン・バイセクシャル・トランスジェンダーのことも代弁しなきゃいけないっていう使命感。
同じセクシュアル・マイノリティには変わりないし、作家ってそういう仕事だから仕方ないのだけど、他人から与えられたLGBTというカテゴリーによって、それを強要されているみたい。
LGBTという集合体として見られるがゆえに、個々のセクシュアリティが見えづらくもなります。

例えば「アジア人」ってカテゴライズされるような感じ。
「お前、アジア人なんだから、中国人や韓国人のことも代弁できるよな?」って。
そんなの、誰だって代弁できないはず。だって僕らは、アジア人ではあるけれど、中国人でも韓国人でもない、日本人だから。
僕は確かにLGBTではあるけれど、レズビアンでも、バイセクシャルでも、トランスジェンダーでもない、僕はゲイだから。
集合体としてではなくて、僕という単体で見てほしいし、単体として発言したいから。

だから僕は、決してLGBTを代表するようなことはせず、ゲイを代表するつもりもなく、ただ東京に暮らす一人のゲイから見た世界の話『ゲイだけど質問ある?』を書いたわけです。

一人ひとりの言葉が、世界を変える

仮に、LGBTという言葉を使わないとするのなら、どんな言葉を使えば、同性愛者が社会でもっと受け入れられる世界になるのか。
LGBTという欧米の概念を流用するだけじゃない、もっと今の日本の風潮に合ったやり方もあると思うんです。

カツセマサヒコさんが、トークイベントの最後にこんな話をしてくれました。
「2013年に、選挙に行こうっていう活動がインターネットで盛り上がって、若者の投票率が上がることが期待されたんだけど、蓋を開けてみたらやっぱり若者は選挙に行かなかったんです。インターネットって、所詮は広い世界のほんの一部でしかない。自分の見たい情報しか目に入らないから、見る人によって世界はいくらでも形を変えてしまう。一方で、家族や友達に『選挙行こうよ』って面と向かって促せば、案外簡単に人を動かせる場合もある。世界を変えることは、決して大げさではなく、一人ひとりを動かしていくことの積み重ねなんじゃないかな

たくさんの人が集った社会的なアクションも、もちろん大切。
けれど、これからの日本では、一人ひとりが、自らの言葉で発言していくことが求められるのではないでしょうか。
LGBTという、既存の枠を超えて。
集合体としてではなく、「個」として。
自分がこの世界の中で何を感じているのか、自分とは何者であるかを、上手な言葉でなくてもいい、誰かに与えられた言葉でなく、自ら選んだ言葉で発言していくことで、きっと世界は少しずつ変わっていくと思うのです。

もちろん、家庭や仕事、いろんな事情でセクシュアリティをカミングアウトできない人もいる。
発言は、僕のような、発言できる環境にある人がすれば良い。
そうして少しずつ、一人ひとりの言葉がこの世界に広まれば、やがて誰もが臆することなくセクシュアリティをカミングアウトできる世界が生まれるはずなんです。
女性が社会進出できる世界だって、外国人が日本で安心して暮らせる世界だって、どんな世界も、そうして少しずつ生まれてきたはずだから。


こうして長々と綴った僕の言葉もまた、誰かにとっての重荷や足かせになるかもしれないと思うと、公開ボタンをクリックする指が震えます。
それでも、「言葉で世界は変えられるのか」じゃなく「言葉こそが世界を変えるものなんだ」って、僕は信じたいのです。

カツセマサヒコさんによるnoteもぜひご覧ください。


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