それでも、スポーツがやりたい!
私は運動能力が高くない。
小学校1年の時、体力測定のソフトボール投げの時、担任の先生が言った。
「すずかちゃんだけ、もう一球投げていいよ。」
わがままを言ったのではない。あまりにもボールが目の前の地面に叩きつけられたため、やり直しをくらったのだ。もちろん再び地面に叩きつけてみせた。
高学年の時には、プールテストでクロールで何メートル泳げるかという項目があった。
13mほど泳いで足がついてしまった。でも13mは13mだ!!カナヅチなりに頑張った!クロールできた!と喜んでいたら
先生は優しい顔で「犬かき頑張ったね」と一言。クロールはできておらず失格だった。
高校の時、バトミントンで総当たり戦をやった。全て負けた。サーブが打てないのだ。仕方がない。
大学のときは、走り棒高跳びのイメージ練習の時に左足に全体重をかけ、重傷寄りの捻挫をした。痛い。まだイメージを掴むための、予行練習しかしていないのに。せめて棒を飛んでから捻挫したかった。
そんな私なのに、今スポーツの指導者だ
そうなのだ。何を隠そう、私はチアリーディングの指導者だ。主に高校生までの子どもたちにチアリーディングを教えている。
どうしてこうなったんだろう。自分でも驚いているが、流れ着いたのだ。
それは、高校に遡る。
高校でチアリーディング部に入部した。そもそも、小学校では競技エアロビック、中学校では体操部に所属していたため、運動能力が低いなりになにか活かせるだろう、と考えていたのだ。
もちろんチアリーディングも運動能力が高い人が活躍した。ジャンプが高く飛べる人、柔軟性が高い人、体幹が強い人、バランス力がある人。
だけど、いくら個人が運動能力が高くてもあまり意味をなさなかった。そんなスポーツには初めて出会った。とても苦しんだし、とても楽しかった。ひとりの失敗がみんなの失敗だった。
ひとりの成功がみんなの喜びだった。
チアリーディング部が重視していたもの
私の母校のチアリーディング部は運動能力の向上よりも、大切にしていたものがあった。
団体の中でどのようにひとりひとりが作用するのか。
それぞれが、チームのために何ができるか、何をしたらいいのか、考え続けること。
特に、先生から言われたわけではない。自分たちで部活動を作っていく中で、自然と身についていったことだった。当時は気づいていなかったが、大人になってからチアリーディングを通してたくさんの学びがあったことに気づいた。
自分たちで演技構成をつくり、それを実現するために、練習メニューを立て、
その中でも怪我をしないように、キャッチングの配置をしたり、組み合わせを変えたり試行錯誤する。
揉め事があれば、ミーティングを開き腹を割って話す。
キツい筋トレや柔軟、通し練習も目的のためならサボらずやる、お互いを鼓舞し合う。
部活が終わればひたすら笑い合っておしゃべりして遊ぶ。
2年半そんなふうに過ごした高校生が成長しないわけがなかった。
本気でチアリーディングに取り組んだことで、運動能力だけが向上したんじゃない。
人間として、生きる上で必要な力がぐーーーんと向上したのだ。
チアリーディングが大好きになった。大好きな仲間とお互いに認め合ってぶつかり合って、やっと完成したノーミスの演技は誰にも創り出せない、あの時の私たちの宝物である。
だけど時間は永遠じゃない
高校生活は終わる。今、私は28歳。体はどんどん衰える。痛いところも沢山ある。
手術や出産でもう戻らない後遺症もある。
人はいつか動けなくなる。
人はなんのためにスポーツを極めるのか。
そもそも現代社会において、運動能力は必要ない
早く走れなくてもいい、新幹線がある。
泳げなくていい、船がある。
力がなくていい、重機がある。
ほとんどの動きがCGでつくれる。
体は衰える、最期には土に還る。どんな優秀な選手も、金メダリストも。
それでもスポーツがしたい
私たちはスポーツで運動能力の向上や、記録を伸ばすこと、美しさを極めること自体を楽しんでいるのではない。
そんなことは、AIに任せればいいのだ。
生身の人間がさまざまな試行錯誤を経て、それにたどり着いた、過程を共感し認め合っているのだ。だから、スポーツは感動する。心が動く。勇気をもらえる。
私は今、チアリーディングの指導者として仕事をしている。
子どもたちには、本気でチアリーディングを取り組む中で
課題を発見し、そのために何ができるか考え、実行し、また考え、話し合い、認め合い、助け合いながら生きる力を身につけてもらいたい。
チアリーディングは団体競技であり、守り合う競技であり、鼓舞し合う競技だ。こんなに人間を成長させてくれるスポーツはなかなかない。
運動能力が低いからなんだ!それでも自分にできることがある!居場所がある!そう感じてほしい。
スポーツができなくなっても、チアリーディングを通して身についた力は失われない。
運動能力が低い私でも、生きる力を授けられる指導者になれるかもしれない。
なれないかもしれない。
それでも、私はスポーツに関わりたい。