『パーティーが終わって、中年が始まる』を読んで思ったこと
『パーティーが終わって、中年が始まる』という本を読んだ。とても面白くて、読みながら色々なことを考えたので、それらをざっくばらんに書いていく。
phaさんのこれまでの本を読んでいると10倍楽しめる
『パーティーが終わって、中年が始まる』は、phaさんのこれまでの本を読んでいることで10倍は楽しめるタイプの本であると思った。20代、30代の頃に書かれた以前の本で表現していた感覚からの、おそらく加齢による変化。その「変化」こそがこの本の魅力だと僕は感じた。そして変化を味わうには「変化前」が前提として必要になる。
phaさんのことを知らない人がいきなりこの本を読んだら面白くない、というわけではない。人間の感覚を文章に乗せるのが上手い方で、しかも以前の本よりさらに磨きがかかっているから、中年による心境変化を綴ったエッセイの1つとして楽しめるはずではある。過去を回想し、「昔は〇〇に対してこう思っていたのに、今は変わってしまった」という内容が主なので、これまでの本を読んでいなくても「変化前」を最低限の前提としては知ることもできる。
だから、中年の心境変化に興味がある人には誰でもオススメできる。でもphaさんのこれまでの本を読んでいる人にとっては、変化前は「最低限の前提」どころか「それこそがphaという人」であったわけだから、より変化を味わうことができるのは間違いない。だから10倍は味わい深くなる。
『ニートの歩き方』でphaさんを知る
僕は、もう10年以上前に『ニートの歩き方』を読んでphaさんを知った。
『ニートの歩き方』を読んだ当時、僕は新卒で入社した会社でサラリーマンとして働いていた。「自分はどう生きたいのか」について1ミリも考えることなく、なんとなく周囲と同じように就活したら安定してそうな大手企業から内定を得られたので、なんとなく入社してみただけだ。学生時代の経験を踏まえると自分にサラリーマンは向いていない気が実はしていたのだけど、まあ、常識的に考えて生活していくには就職するしかないだろう。他の選択肢も分からないし。みたいな感じだった。
で、案の定、サラリーマンが向いておらず、しかしどうすればいいのか分からないので、鬱々としながら労働と消費を繰り返す惰性の日々に陥り、「俺、なんのために生きているんだろうか……」と虚無になっているときに手に取ったのが、『ニートの歩き方』だった。
この本は、インターネットを活用し、なるべく働かずに自由にふらふら生きていくライフスタイルを紹介するもの。インターネットで細々稼いだり、同類と繋がって遊んだりしながら暮らすライフスタイルだ。著者のphaさんご自身がそのような暮らしを当時されていたようで、その暮らしの紹介や、その暮らしに至った価値観や、実現するためのちょっとしたノウハウも書かれていた。
そのライフスタイルは、当時の僕が実践するにはとても難しいものに思えた。あまりにも突飛すぎる。変人すぎる。凡人の僕にそれは無理だ。それに当然ながら僕はphaさんではないので価値観にも違いがあり、そのまま実践したいと思うわけでもなかった。たとえば僕はシェアハウスで多くの人と薄く繋がるということをしたくない。そんなの面倒くさすぎる。世の中にはわけの分からないムカつく人がたくさんいるから、人付き合いは厳選し、ごくごく少数の人とだけ深く繋がりたい。僕はそっちのタイプだ。
でも、生き方に関して視野を拡げてくれる本だった。当時の僕は無意識レベルで常識や世間体に縛られていたから、会社に勤めて働く以外の選択肢が視野に入ってすらいなかったのだ。そんな奴にとって、「別に会社で嫌々働かなくても、ネットがあれば生きていけるよ」という内容は、1つの救いですらあった。こんな生き方もアリなら、もっと他にも色々な選択肢があるはずだ。いくつかの考え方を取り入れながら自分向けにチューニングできる気がする。そんな救いだった。
phaさんの本の魅力
以来、phaさんの本は5冊ぐらいは読んできている。『持たない幸福論』『どこでもいいからどこかへ行きたい』『ひきこもらない』など。他にも何冊か読んだはず。
phaさんの本は、すごく共感する、というわけではない。シェアハウスに対する感覚や、人付き合いに対する価値観、働きたくないという気持ちの具体的な意味など、僕とはけっこう違う方だと思う。10のことが書かれているうち、共感するのは3ぐらいだ。でも、3は共感する。自分の中にある感覚を言語化してもらえる心地良さがある。そして残り7も「全然、わっかんねえなあ。人種が違う人だ」ではなく「なるほどなあ、自分とは違う感覚だけど、人間が抱く1つの感覚として、なんか分かる」となる。それが面白い。
人間を4種類ぐらいに大別したとしたら、僕はphaさんと同系統にカテゴライズされるとは思う。外からの社会的評価より内からの自己納得を優先したいとか、束縛されたくないとか、お金より自由に使える時間を欲するとか。そして、大別すれば同じカテゴリに属する人が、自分とは違うけど人間の感覚の形として分かると感じる心情を表現してくれる。それが視野を拡げてくれる。
自分とはまるで異なる人の価値観や体験よりも、大別すれば自分と同じ人からの自分とは違う部分の価値観や体験のほうが、なんだか発想の自由を与えてくれる。遠すぎず、近すぎずな程よい距離感だからかもしれない。自分の中からは出てこないし違う発想だけど、自分なりに考える刺激になる。
特殊すぎる人が程よく普通になった
そんなphaさんが、突飛で特殊な人からだいぶ普通な側に変化したように、『パーティーが終わって、中年が始まる』を読んで率直に感じた。
あくまで本でしかphaさんを知らない一読者の勝手な認識だけど、phaさんを特殊な人として位置付けていたのは、やはりシェアハウスだと思う。しかも、社会的にちゃんとしたシェアハウスをビジネスとして運営していたとかではなく、ドアにカギをかけず、ある程度のルールは設けつつ可能な限り出入り自由にしておくような。僕みたいな普通人からしたら、正直、意味が分からない。常識外れすぎる。遊びに行かせてもらうだけでもちょっと怖いと感じてしまう。
そんなphaさんが、40歳のとき「シェアハウスってやっぱり若者向けのものだよな」と感じてシェアハウスを解散して、普通に1人暮らしを始めたとのこと。
僕の価値観から照らすと、今のphaさんの暮らしのほうが楽しそうだ。普通に静かに暮らしながら文章を書き、発表し、たまに友達と遊んだりイベントへ行ったりする。最高だ。もう視野は拡げてもらえたので、今後は僕が最高に思える暮らしを題材にした本を色々と書いてもらえたら、一読者としては嬉しい。
僕の場合、中年が終わってパーティーが始まっている
僕は今39歳で、現段階ではまだパーティーが終わって中年が始まっている感覚はない。むしろ、虚無を抱きながらも惰性で10年以上も続けてきた会社員生活を約3年前に辞めたことで、精神的中年状態が終わりパーティーが始まった感覚すらある。今まで抑圧してきた分、やりたいことが色々ある。
ここで言う「中年」は「楽しく生きようとする気持ちを失い惰性で生きる」という意味で、「パーティー」は「やりたいことをやって楽しく生きようとする」という意味だ。『中年が終わって、パーティーが始まった』という本でも書こうかな。
僕の「パーティー」はphaさんの「中年」よりも淡々とした質素な生活かもしれない。東京ではなく神奈川の田舎にて毎日家で文章を書き、読書して、外を散歩し、市民農園で野菜を作って収穫し、映像作品やゲームで遊ぶ。家族やごく少数の学生時代からの友達以外と会って話す機会はごくごく稀にしかない。それぐらいで他者との距離感は十分だと今は思えているので、変に頑張ることなく感覚に素直に従って暮らしている。
でも、今の自分的なパーティー生活を続けていくにつれてまた惰性になってきて、40代中盤ごろには僕もパーティーが終わって中年が始まるのかもしれない。そうなったらそれをネタにして僕も文章を書きたい。