楽屋で、幕の内。| アスリートはこうして作られる (猫飼い戦記 植物との共生編3)Aug.14
「本人がやる気にならないとですね」
「はあ」
「周りが勉強しろと言っても、本人にスイッチが入らないと」
「はあ」
先生、分かってます、分かってます。息子、受験生ですからね。
だが、「なんとかしたい」と心の底から願った瞬間、変わる。
工夫や努力を厭わず、困難に立ちむかい、成長できる。君ならできる。
私は信じているよ。
うちの猫ができたのだから。
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また惚れてしまった。
好きになってはいけないのに、どうして出会ってしまったんだろう。
4月中旬の昼前のことだ。家から徒歩5分ほどの所に小さな八百屋がある。その店頭に小ぶりのアジサイの苗が並んでいた。アジサイには珍しく、花房はピンポン球ほどとかなり小さい。初めて見る種類だ。楚々として儚げな薄ピンク色の花が2、3輪すでに開花している。
「伊予獅子てまり」とアジサイの名前が記された名札が挿してある。名前も姿もいかにもアジサイ、でないのがいい。これから訪れるうっとおしい梅雨に、軽やかな姿で気分を明るくしてくれそうだ。
「かわいい」
が、待てよ。これを育てるとなると奴が居る。猫が。どう考えても速攻で掘り起こす。瞬殺されるのが目に浮かぶ。諦めるか、でも、諦めきれない。 店先にしゃがみこんでか1時間ほど悩んだが、対策は後ほど講じることにして、ひとつ購入した。
白いビニールの手提げ袋を下げて帰宅すると、
猫がさっそく「なになになになになになに」と近寄ってきた。
気付かれてはならない。こういうことは初手が肝心だ。うちの猫は自分に興味があることだけには、やたら記憶力がいいのだ。猫の手が届く床やテーブルに置くのは絶対ダメ。とりあえず、ベランダの物干竿に手提げ袋に入れたままひっかけた。ここなら踏み台になりそうなものもなく、届かない。
猫がベランダの壁の上にすたっと飛び乗ると、お座りしてじーっとビニール袋を見つめている。届きそうで届かない絶妙な距離に、精一杯首を伸ばして匂いを嗅ごうとしている。手を伸ばしたいが、壁から落ちるので前足を上げたり下げたり、もごもごさせている。
よし。これで作戦を練るための時間稼ぎができる。朝顔、タニーの作戦は失敗だった。新たな戦略が必要だ。アジサイは屋外で育つ植物なので、戦いのフィールドはベランダになる。
ぶら下げたビニール袋を見て、ひらめいた。素敵なお家の外壁にある、確かハンギングとかいう、あれ。植木鉢を壁面に吊るして飾る方式だ。これならいいんじゃないか。
我が家はアパートの3階にある。ベランダの造りをざっくり説明すると、壁、アルミ製の柵、壁の並びだ。コンクリート製で幅約20cm、高さ約130cmの外壁を左右に配し、中央はアルミ製の柵で、手すりの幅は約4cm、高さは壁と同じ。10cm間隔で並ぶアルミの柵の全長は約3mと結構長く、おかげで風通しが良い。
猫はコンクリート製の壁には登るが、アルミ製の柵に登れない。それはそうだ、手すりの幅は狭く足元が悪い。しかもアパートの3階と高さがある。ここだ、聖地発見。サンクチュアリ発見。
作戦はこうだ。アルミ製の柵の真ん中にハンギングで「伊予獅子てまり」を植える。左右の壁から1m以上の距離があり、猫には絶対届かない。 これで、やっとベランダでビューティフル・ガーデニングライフが始められるのだ。
ホームセンターの園芸コーナーで、ハンギング用のホルダーと植木鉢を購入した。安心感に包まれて、幸福のうちに植え替えを終えた。土いじりって癒される。さっそくアルミ製の柵に吊るす。これこれ、これがガーデニングよ。1鉢しかないけど。今後1、2鉢なら増やしてもいいんじゃないか。次はどんな植物にしようか、とうきうきしていると猫がやってきた。
身軽な動作でコンクリートの壁の上に飛び乗り、見慣れないハンギングのアジサイを注視している。だが、近寄れないでいる。壁から降りて床から見上げたり、また登ったり。何回か繰り返して部屋に戻ってしまった。
…やった?…勝った?
人間、嬉しすぎることが起きると、素直に喜べないと分かった。子供の頃に読んだ少女漫画のヒロインのセリフで「幸せすぎて怖い」というのがあった。きっとこういう感覚なのねと、恋話から全くかけ離れたシチュエーションで理解するのもどうかと思った。
信じられない。とにかく勝利の喜びに浸ることを自分に許そう。その日のビールと亀田の柿の種は格別においしかった。
翌日の朝。がささっ、がささっ、どん。聞き慣れない音がベランダから聞こえる。見に行くと、猫が壁からアルミの手すりを伝い歩こうとしていた。幅が狭いので、2歩目を踏み出すとバランスを崩して落下していた(もちろん、ベランダの内側に)。
「…まさか、アジサイまでたどり着きたいってこと?」
歩きにくいアルミの手すりから落ちても、またコンクリート壁に登り、何度も何度も繰り返している。
「まあ、無理よ。うん、無理。外側に落ちないでね、3階だから」
猫は時間が許す限り、というより毎日ほぼ暇なのだが、手すりを歩く自主練を繰り返していた。次の日も、次の日も。諦めずとにかく自主練を続けた。猫の前足さばきと後ろ足の着地が明らかにしっかりしてきた。最初は高みの見物だったが、嫌な予感しかない。
そして、3日目の午後だったと思う。急に何かをつかんだ猫は、一気に柵の上を歩いてアジサイにたどり着いた。西向きのベランダで、夕方の光が逆光で猫のシルエットを劇的に映し出す。見よ、この威風堂々としたこの姿。
「オリンピック女子平均台、日本代表、念願の舞台でパーフェクトな演技です」「完璧ですね」と実況と解説が聞こえてくるようだ。
そして、何のためらいもなく、アジサイの鉢に片手を突っ込んで土を掘り、葉をかじる。
敵、目標に到達せり。
慌てて東側にある小さいほうのベランダへ、アジサイを移動させる。ここはアルミ製の柵だけでコンクリート壁がないのでまず登れない。最初からこちらにすればよかった。
アジサイを小さい方のベランダの柵にかけると、すぐに猫は特訓を始めた。アルミ製の柵にジャンプして、ツメを手すりに引っ掛けてよじ登る練習だ。
「無理だろう、無理」
猫はひたすらジャンプする。ツメを引っ掛けて手すりに後ろ足をかける。何度も落ちる(ベランダの内側に)。だが、伸び盛りの選手は吸収力が違う。翌日、大きいベランダで得た経験と技術を結集して、手すりの上でバランスを取ると、優雅に柵の上を歩いてハンギングホルダーまでたどり着いた。
「前回の大会から『自分を追い込む、結果を出す』と決めて、きちんと結果を出してきました」
「練習内容も男子並みに増やした、と聞いていますよ」
またオリンピック実況と解説が聞こえてくる。
そして、何のためらいもなく、アジサイの鉢に片手を突っ込んで土を掘り、葉をかじる。
その後、アジサイは葉が一枚もなくなり、枯れた。土も毎日ほじくり返されてベランダは土だらけになった。梅雨にアジサイの花を愛でることはなかった。
代わりに猫が進化した。その後も鍛錬を続けた猫はアルミ製の柵の上を、端から端まで歩けるようになった。
アスリートの成長には壁が必要というが、そのとおりだな、と分かった。
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