いつかの伊勢
お伊勢参り、したくない?
そんな友人の一言で、たまたま学食に一緒に並んでいた女子四人での伊勢旅行が決まった。
大した計画もなく、なぜか伊勢からかなり離れた志摩半島の先の方に宿を取り、二日目は鳥羽水族館か、むしろ早めに三重を離れて名古屋に寄るか、などとゆるりと話して、気づけば当日を迎えていた。
新幹線のぞみの速さに驚き、特急いせの長閑さに驚き、伊勢市駅に到着したのは13時すぎ。
わたしたちの頭は空腹と伊勢うどん、そして出来立て赤福にのみ支配され、正直お伊勢参りどころではなかった。
四人で割り勘という心の余裕と食に向けて逸る気持ちに突き動かされ、贅沢にも颯爽とタクシーに乗り込み向かった先はおかげ横丁。
いつまでも食べ盛りをスローガンに掲げるわたしたちは、あまりの空腹で口数も少なに伊勢うどんの暖簾を探してうろつき回る。
黙々と並んでなんとかありついた伊勢うどん(月見)の美味しさに感動し、元気を取り戻すや否や吸い込むように牛串やら赤福やらを平らげて、やっとそろそろお参りに、と落ち着いた頃にはもう随分と日も傾いていた。
そんなこんなでようやくたどり着いた伊勢神宮内宮。
足を踏み入れ、息を呑んだ。
悠然と聳える数多の大木、
清らかに、やわらかに光を受け止める白い砂利、
橙色をおびはじめた微睡むような空、
そこに溶け込むように稜線のどこか曖昧な、それでいて堂々たる山々。
広大な自然に囲まれた伊勢神宮は、普段東京のビルの合間を縫って暮らすわたしにとってあまりにも雄大で、
さほど信心深くもないわたしの心にも思わず霊験あらたか、という言葉が浮かんだ。
神が宿る森、と言われても誰だって納得してしまうだろう。
きらめく木漏れ日を全身に浴び、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら参道を歩く。
たったそれだけで、驚くほどに心も身体もほぐれていく気がした。
遠い昔にここへ来た誰かも、あるいはこんな感動を覚えたのだろうか。
人の営みを軽々と凌駕し、時に不幸をもたらす自然に対する一種の恐怖と、
それでもやはり人の手では決して作れない美しさをふとした時に見せてくれる自然に対する敬愛。
古来からある八百万の神を尊ぶ考えが自発したわけが、今は容易に実感できる。
そして、効率化の推進とそれによる自然破壊への非難が日々声高に叫ばれ、忙しなく、どこか息苦しくなってしまった現代において、
こんなふうに自然と文化が穏やかに共にある姿を見ることができる場所は、実は貴重なのではないだろうか。
もちろんわたしはあの環境を維持するための努力や負荷の片鱗すら知らず、
もっと言えば神宮の自然が果たしてどれほど「自然」であるのかもわからない。
それでも、抱いた感動は鮮明で、古くから大切に守られてきたあの環境は、なにか大事なことを気づかせてくれるのではないかと、ついそんなふうに思ってしまう。
訪れるまで特段の思い入れもなかった自分がちょっぴり驚くほどに、伊勢は間違いなく、忘れることのできない場所だ。
P.S. 二日目は結局鳥羽水族館を訪れた。ラッコもジュゴンもウツボもアシカもみんなとっても可愛かった。
三重県、素敵なところです。
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